2016年02月23日
兄たちへの想い
「人の世ハ別れるものと知りながら
別れハなどてかくも悲しき」
出撃直前 走り書きを残した
特攻隊員 上原良司
上原さんのお話は池田町での聞き取りでも書きましたが
(池田町のブログはこちら↓
http://manaboom.naganoblog.jp/e1704599.html )
今回はその良司さんの妹さんに
お話を聞く機会をいただきました。

5人兄妹で上から 良春、龍男、良司、私、登志江
「ごく普通の兄でしたが、がったぼうずでした」
「家での食事の時はちょうど前で
よく口喧嘩して泣かされましたよ。」
とやわらかな笑顔を見せながら語って下さったのが
大正15年2月26日生まれの上原清子さん
間もなく90歳。
「近所の川でもよく遊びましたよ〜」
家の周りの田んぼをテニスコートにして
皆で楽しんだり、家にはレコードなんかもあったりと、
当時の写真も見せていただきながら、
いろいろ聞かせていただきました。
お医者さんの家だったから裕福だったんですね。

しかし日本は戦争へ。
ちょうど年頃だったお兄さんは
3人とも戦地へ行き、
そして皆 生きては帰って来なかった、、、
出撃前の4月に故郷に戻った良司さんが
「天国に行くから靖国神社には行かないよ」
と妹の登志江さんに言ったとか、
また乳房橋を渡り大きな声で「さようなら」
と叫んだのを母が聞いたとか、、、
その話はよく出ますが
清子さんはその時 家にはいなかったので、
自分が聞いたという話ではないようです^^
そんな清子さんが最後に兄良司さんに会ったのは
調布の飛行場での面会でした。
他にも多くの方がいたので
二人きりになれたわけではなく
みんなで冗談を言って別れたと。
でもそんな冗談でも言っていなければ
やりきれなかったんではないかと、、、
涙を浮かべながら話して下さいました。

当時は毎日カボチャを食べたりと食糧苦もあったけど、
戦争だから仕方が無いという気持ちだったと。
父も軍隊に行っているし、
男は戦争に行くのは当たり前だったから
兄たちが一人一人家からいなくなっても
それほど当時違和感はなかった。
だけど戦争が終わった時に、
玉音放送は直接聞かなんだと思うけど、
敗戦を知り
「あの兄たちが死んだのは何だったのかな?」
と虚しくなりました。
そして「これからどうなるんだろう?」と思ったと。

実家近くの乳房橋にも実際に行ってみました。
今は周辺にたくさんの家が立ち並び
「ここから家まで別れの声が届くのかな?」
というくらいの距離でしたが、
橋の下に流れる川の水は
今でも遊びたくなるのがわかるくらい
透き通っていて綺麗でした。

これまでにも清子さんのもとに
いろいろな方がお話を聞きに来たそうで
嵐のメンバー?!と一緒に映った写真も
見せていただきましたw
今の若者や社会に伝えたいことはありますか?
という問いには、
「歴史をしっかり学んでいただきたい」
「自分の考えをしっかり持って
いろんなことに対処してもらいたい」とのことです
やっぱり歴史に学ぶということは大事な事!
都合の悪い事は見て見ぬ振りではなく
しっかりと事実を見て本質を捉えて
今後どうして行けば良いのか対処していきたいですね。
そう兄の良司さんは故郷への想いをこんな一句に残していました。
「かにかくに 有明村は恋しかりけり
思い出の山 思い出の川」
帰り際、清子さんが書かれたという一句も見せて下さいました。

まだまだお元気で、いろいろ教えて下さい。
ありがとうございました。
LOVE & PEACE
回想プロジェクト→ https://www.facebook.com/kaisou1945
ホームページ http://manaboom.net
別れハなどてかくも悲しき」
出撃直前 走り書きを残した
特攻隊員 上原良司
上原さんのお話は池田町での聞き取りでも書きましたが
(池田町のブログはこちら↓
http://manaboom.naganoblog.jp/e1704599.html )
今回はその良司さんの妹さんに
お話を聞く機会をいただきました。

5人兄妹で上から 良春、龍男、良司、私、登志江
「ごく普通の兄でしたが、がったぼうずでした」
「家での食事の時はちょうど前で
よく口喧嘩して泣かされましたよ。」
とやわらかな笑顔を見せながら語って下さったのが
大正15年2月26日生まれの上原清子さん
間もなく90歳。
「近所の川でもよく遊びましたよ〜」
家の周りの田んぼをテニスコートにして
皆で楽しんだり、家にはレコードなんかもあったりと、
当時の写真も見せていただきながら、
いろいろ聞かせていただきました。
お医者さんの家だったから裕福だったんですね。

しかし日本は戦争へ。
ちょうど年頃だったお兄さんは
3人とも戦地へ行き、
そして皆 生きては帰って来なかった、、、
出撃前の4月に故郷に戻った良司さんが
「天国に行くから靖国神社には行かないよ」
と妹の登志江さんに言ったとか、
また乳房橋を渡り大きな声で「さようなら」
と叫んだのを母が聞いたとか、、、
その話はよく出ますが
清子さんはその時 家にはいなかったので、
自分が聞いたという話ではないようです^^
そんな清子さんが最後に兄良司さんに会ったのは
調布の飛行場での面会でした。
他にも多くの方がいたので
二人きりになれたわけではなく
みんなで冗談を言って別れたと。
でもそんな冗談でも言っていなければ
やりきれなかったんではないかと、、、
涙を浮かべながら話して下さいました。

当時は毎日カボチャを食べたりと食糧苦もあったけど、
戦争だから仕方が無いという気持ちだったと。
父も軍隊に行っているし、
男は戦争に行くのは当たり前だったから
兄たちが一人一人家からいなくなっても
それほど当時違和感はなかった。
だけど戦争が終わった時に、
玉音放送は直接聞かなんだと思うけど、
敗戦を知り
「あの兄たちが死んだのは何だったのかな?」
と虚しくなりました。
そして「これからどうなるんだろう?」と思ったと。

実家近くの乳房橋にも実際に行ってみました。
今は周辺にたくさんの家が立ち並び
「ここから家まで別れの声が届くのかな?」
というくらいの距離でしたが、
橋の下に流れる川の水は
今でも遊びたくなるのがわかるくらい
透き通っていて綺麗でした。

これまでにも清子さんのもとに
いろいろな方がお話を聞きに来たそうで
嵐のメンバー?!と一緒に映った写真も
見せていただきましたw
今の若者や社会に伝えたいことはありますか?
という問いには、
「歴史をしっかり学んでいただきたい」
「自分の考えをしっかり持って
いろんなことに対処してもらいたい」とのことです
やっぱり歴史に学ぶということは大事な事!
都合の悪い事は見て見ぬ振りではなく
しっかりと事実を見て本質を捉えて
今後どうして行けば良いのか対処していきたいですね。
そう兄の良司さんは故郷への想いをこんな一句に残していました。
「かにかくに 有明村は恋しかりけり
思い出の山 思い出の川」
帰り際、清子さんが書かれたという一句も見せて下さいました。

まだまだお元気で、いろいろ教えて下さい。
ありがとうございました。
LOVE & PEACE
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