2016年08月03日
JR鉄道 最高地点の村から
日本で一番標高の高い 野辺山駅(海抜1345m67cm)や
国立天文台野辺山宇宙電波観測所に設置された
世界一の精度を誇る宇宙電波望遠鏡も有名な南牧村。
そんな村でお話を聞かせていただけたのが
まだまだ畑にも出るという高見澤さん 91歳
長野県は海がない県ですが、
ここにも地名、駅名は海ノ口。

その昔(888年)八ヶ岳が水蒸気爆発をおこし崩壊し
その泥流が今でもある松原湖を作ったばかりでなく
南牧湖なども作った。
その湖のはじまり(千曲川の水が流れ込んだ地点)を海ノ口、
千曲川が堰き止められた地点を海尻といった。
その後 南牧湖の水は無くなり人々が住みはじめたとか。

そんな海ノ口で生まれ育った高見澤さん
9人兄妹の3番目
南佐久農林学校(現小海高校)を卒業してから志願兵に。
地元の神社でお参りをしたあと、村民の笛太鼓で送り出され
寄せ書きを胸に 村の駅 海ノ口を後にした。

昭和19年 松本の部隊へ入隊
14師団 陸軍歩兵隊49部隊で3ヶ月程金沢で訓練を受ける。
その後 歩兵から工兵に転換し水戸へ。
水戸の工兵隊42部隊で教育係 初年兵を送り出していた。
昭和20年4月から3ヶ月教育をし、
次の初年兵を教育している時に終戦。
空襲も7月頃からは頻繁にあって
屋根の瓦がバリバリと割れたり飛び散る事があったり
白衣の看護婦が庭で逃げる時に機銃掃射で撃たれたことも。
8月15日 兵隊が部隊ごとに庭に並び不動の姿勢で
部隊長の言葉を聞いていた。
玉音放送は聞き取りづらく。
そこで部隊長が「隊員ますます頑張って励むように!」
なんて言っている挨拶の途中で内容が違うとわかって、
急遽取り消して 負けたということが伝えられた。
悲観する者もいたが、これで戦地に行かず
家に帰れるという思いも多少あった。
高見澤さんは立場上 初年兵の教育者だったこともあり
兵隊を無事に家に帰せるとホッとしたと。
終戦後 鉄砲など武器を処理する部隊として
いろいろなカタチで処理をした。
一年半ぶり8月27日に故郷へ帰る。
負けた責任を感じてコソコソと帰ってきたことを覚えている。
下の弟も志願兵で海軍へ行っていたが、
瀬戸内海で魚雷操縦訓練中に終戦をむかえ帰ってきた。
本土決戦に備えての人間魚雷だ。
後からわかった事だが、
終戦がもう少しズレていれば帰ってこれなかったと。

そんな戦時中を過ごし印象に残っている事はやはり軍隊教育。
国の教育で一方的に本人の意志でなくても
精神論を押し付けたことは大きかったと。
また3月10日の東京大空襲後の片付け時
トラックに遺体をたくさん乗せた。
被害の多かった浅草橋あたりで
そのまま ケガなく亡くなっている人も多かった。
逃げる途中で酸欠、窒息死や
一酸化酸素中毒死なども多かったのでは?
という感じがしたと。
そんな中でも、生きて帰って来れたことが幸せだと。
その後は農業に精を出し
今もレタスに白菜、キャベツ、グリーンボールなど
美味しい葉物野菜を中心に全国都心にも出荷している。
野辺山の方は戦後開拓で入植したかたが多く
寒さ厳しい中先人達の苦労は並々ならぬものがあったようです。
戦前はそれほどでもなかったが、
戦後から開拓制度がはじまりこれだけ農園も広がったと。
現在でも野辺山に70世帯程が農業を営んでいる。
故郷は人情にあつい
冬は寒いけど 今は家の中も暖かいしとてもいいところだと。
また南牧村は天文学者が選ぶ「日本で一番綺麗な星空ベスト3」
なんですって!
これはまた夜 来なくてはww

収穫期でお忙しい中貴重なお話、
そして美味しい採れたて野菜のお土産まで
ありがとうございました。
お元気で。

LOVE & PEACE
愛から平和まで歌う シンガーソングライター
清水まなぶ → http://manaboom.net
回想プロジェクトFB→ https://www.facebook.com/kaisou1945
歌と語りの講演会
回想プロジェクト→ http://artemisplaces.wix.com/kaisou
国立天文台野辺山宇宙電波観測所に設置された
世界一の精度を誇る宇宙電波望遠鏡も有名な南牧村。
そんな村でお話を聞かせていただけたのが
まだまだ畑にも出るという高見澤さん 91歳
長野県は海がない県ですが、
ここにも地名、駅名は海ノ口。

その昔(888年)八ヶ岳が水蒸気爆発をおこし崩壊し
その泥流が今でもある松原湖を作ったばかりでなく
南牧湖なども作った。
その湖のはじまり(千曲川の水が流れ込んだ地点)を海ノ口、
千曲川が堰き止められた地点を海尻といった。
その後 南牧湖の水は無くなり人々が住みはじめたとか。

そんな海ノ口で生まれ育った高見澤さん
9人兄妹の3番目
南佐久農林学校(現小海高校)を卒業してから志願兵に。
地元の神社でお参りをしたあと、村民の笛太鼓で送り出され
寄せ書きを胸に 村の駅 海ノ口を後にした。

昭和19年 松本の部隊へ入隊
14師団 陸軍歩兵隊49部隊で3ヶ月程金沢で訓練を受ける。
その後 歩兵から工兵に転換し水戸へ。
水戸の工兵隊42部隊で教育係 初年兵を送り出していた。
昭和20年4月から3ヶ月教育をし、
次の初年兵を教育している時に終戦。
空襲も7月頃からは頻繁にあって
屋根の瓦がバリバリと割れたり飛び散る事があったり
白衣の看護婦が庭で逃げる時に機銃掃射で撃たれたことも。
8月15日 兵隊が部隊ごとに庭に並び不動の姿勢で
部隊長の言葉を聞いていた。
玉音放送は聞き取りづらく。
そこで部隊長が「隊員ますます頑張って励むように!」
なんて言っている挨拶の途中で内容が違うとわかって、
急遽取り消して 負けたということが伝えられた。
悲観する者もいたが、これで戦地に行かず
家に帰れるという思いも多少あった。
高見澤さんは立場上 初年兵の教育者だったこともあり
兵隊を無事に家に帰せるとホッとしたと。
終戦後 鉄砲など武器を処理する部隊として
いろいろなカタチで処理をした。
一年半ぶり8月27日に故郷へ帰る。
負けた責任を感じてコソコソと帰ってきたことを覚えている。
下の弟も志願兵で海軍へ行っていたが、
瀬戸内海で魚雷操縦訓練中に終戦をむかえ帰ってきた。
本土決戦に備えての人間魚雷だ。
後からわかった事だが、
終戦がもう少しズレていれば帰ってこれなかったと。

そんな戦時中を過ごし印象に残っている事はやはり軍隊教育。
国の教育で一方的に本人の意志でなくても
精神論を押し付けたことは大きかったと。
また3月10日の東京大空襲後の片付け時
トラックに遺体をたくさん乗せた。
被害の多かった浅草橋あたりで
そのまま ケガなく亡くなっている人も多かった。
逃げる途中で酸欠、窒息死や
一酸化酸素中毒死なども多かったのでは?
という感じがしたと。
そんな中でも、生きて帰って来れたことが幸せだと。
その後は農業に精を出し
今もレタスに白菜、キャベツ、グリーンボールなど
美味しい葉物野菜を中心に全国都心にも出荷している。
野辺山の方は戦後開拓で入植したかたが多く
寒さ厳しい中先人達の苦労は並々ならぬものがあったようです。
戦前はそれほどでもなかったが、
戦後から開拓制度がはじまりこれだけ農園も広がったと。
現在でも野辺山に70世帯程が農業を営んでいる。
故郷は人情にあつい
冬は寒いけど 今は家の中も暖かいしとてもいいところだと。
また南牧村は天文学者が選ぶ「日本で一番綺麗な星空ベスト3」
なんですって!
これはまた夜 来なくてはww

収穫期でお忙しい中貴重なお話、
そして美味しい採れたて野菜のお土産まで
ありがとうございました。
お元気で。

LOVE & PEACE
愛から平和まで歌う シンガーソングライター
清水まなぶ → http://manaboom.net
回想プロジェクトFB→ https://www.facebook.com/kaisou1945
歌と語りの講演会
回想プロジェクト→ http://artemisplaces.wix.com/kaisou