2016年05月20日
林鉄とひのきの里 上松町
信州 全77市町村 70年前の記憶をたどる旅
今回は人口約4600人、
今 大相撲で大活躍の御嶽海 出身地
木曽郡上松町におじゃましました。
先日紹介した赤沢自然休養林もそうですが
森林鉄道の面影が町のいる所に残る町。
中央アルプス 木曽駒ヶ岳がそびえ
木曽川が流れる町でお話を聞かせてくれたのは
2人の伊藤さん長野さんの3人
みなさん幼なじみ。
なんと90歳です
いやぁ〜お元気^^

小学校の頃を振り返ってもらうと、
「人数は今の倍くらいいたかな〜
礼、智、仁、勇組まであったから。」
ん?
それ学校のクラスの呼び名ですか?
そう当時学校のクラスは1組2組とかではなく
礼、智、仁、勇、
高等科では 信、義、和 という組だったとか。
儒教の五常を元にしているのかな、、?
「一組50人くらいいたんじゃないかな?」と。
履物は藁草履で歩くから
学校の廊下は藁くずで散らかっていましたよ〜
でも磨かれてピカピカ綺麗だったと。
学校でも「前、前、後ろ後ろ」
なんていう銃剣術もやりましたよ。
勤労奉仕で授業というよりお手伝い。
人糞を肥料としていたから、
それを畑にまいたりした記憶が、、、
そして支那事変がはじまった時のこと
大東亜戦争(太平洋戦争)が
はじまった時のこともよく覚えていて、
兵隊さんを毎日のように送り出していたと。
9時9分の列車
万歳万歳と見えなくなるまで駅で見送った。
まだ子どもだから(6年生?)
旗を振るくらいだけど
日課のようになっていた。
食料事情は戦後の方が大変だった。
何でも山に生えているものは口にしましたよ。
今も ぎょうぶ(りょうぶ?) を見ると
食べていた事を思い出すと。
うさぎ狩りもやった。
そして荻野原が楽しい思い出の場所で
運動会をやったり遊ぶ場所だったとも。
そんな中 一番記憶に残っている事を聞いてみると、
伊藤(政恵)さんはB29がブンブンと頭上を
飛行していったことを鮮明に覚えていると。
結果的には爆撃はなかったが、
空襲警報が鳴る度におじいちゃんの手を引き避難した。
そして看護士をしていたので
病院のラジオで玉音放送を聞いた。
し~んとした中 みんなで聞いていましたよ。
まさか負けるとも思わずに、、、
伊藤(澄子)さんは川崎の富士通の工場で働いていた。
上松からも4人ほど一緒に行っていた。
終戦間際には荷物を背負ってごろ寝、
空襲警報が鳴るといつでも逃げられる体勢で過ごしていた。
毎晩毎晩 逃げているので、そのうち逃げるのが嫌になって、
今夜はここで死んでもいいから、動きたくないと思ったことも。
焼夷弾の落ちる音が聞こえる中、
友達のリックに焼夷弾があたってリックがバラバラに、
しかし運良く怪我もなく命は助かった。
ほんとに紙一重、運なのか?
胸をなでおろす。
そして敗戦3日後には故郷へ帰ることになったが、
帰りの南武線の中でのこと、
髪の毛 三つ編みのお下げが珍しいのか
米軍の兵士が私の髪の毛を手に取った。
それは何をされるかと怖かった。
きっと三つ編みが珍しかったんでしょう〜
そして終戦とともにケチャップが
入ってきたことも覚えている。
もう一人 長野さんはなんといっても火事の事を思い出すと。
実はこの上松は火事の多い町としても
知られていたようなのです。
戦中 昭和20年5月に大火事があって
大変だったことが記憶に残っていたり、
また昭和25年にも町が全滅するほどの大火があったと。
木材の町 蒸気機関車の火の粉がよく飛んできたからなのか?
起伏が激しく 消火用の水を
川から汲み上げられなかったからなのか?
いやいやその他の原因が?
原因究明で喧嘩になったこともあったそうな、、、
水といえば、
この町にある観光名所
「寝覚めの床」
県歌 信濃の国にも登場するスポットなので
知っている人も多いと思います。
3人にあそこはオススメの場所じゃないですか?
と聞いてみると
「今は水がなくてダメ」と即答w
昔を知っていると 見る影がないそうです。

今は岩だけになってしまった。
昔は水が満々としていて見事だったと。
やはりダムが出来てから。
当時の町長が水を売っちゃったから、、、
こっちの言葉でいえば「とろくさい」と。
そんな愛嬌もあるおばあちゃんたち
元気ですww
その健康の秘訣は?
「食べて笑って動くことくらい」と。
長野さんはお祭りも大好きだとか。
伊藤さんはバンドーラやバイオリンを作ったり弾いたりの
趣味があるから元気なのかな〜と。
モットーは出来ても出来なくても
休まない事だそうだ。
楽器を作ったり演奏したりするようになったのも
70歳過ぎたころからだと。
年齢は関係なく いつからでも何でも出来るよ〜
という希望を教わります。
興味があるものには
チャレンジ!!ですね。
いやぁ~90歳で楽器を作ったり演奏したりって憧れです。

そして今 若者や社会に伝えたい事も聞いてみた。
やっぱり挨拶かな。
挨拶が大事というけど
学校の先生でさえしない人も増えている。
挨拶運動しているから
地域のみなさんも見守って下さいっていうけど
先生がしなきゃしょうがない。
まずは大人がしっかり挨拶すること。
そもそもそんな運動をするんじゃなくて
自然と大人から学ぶことだし、
親も先生も自分たちからその姿を見せないと。
子ども達の元気な声を聞きたい。
するとお一人が、
「でも中にはいるよ〜」と。
先日ゴミを出す日に自分が運んでいると
面識もない5、6年?の男の子が来て
持って一緒に運んでくれた。
名前を教えてといっても、
いいって行ってしまったけど
しっかり挨拶も出来る子だったな〜
きっとまわりにそういう大人がいるんでしょうね。
困った人にはそっと手を差し伸べる。
そういう気持ちを持った人が増えればいいですね。
争いも少なくなっていくだろうに。
地域の伝統とともに、大人が受け継がなければいけないもの
いろいろと教わります。
先日の御柱も見に行ってきたというほど
元気な方々ですが、
まだ同級生グループで6人
20人くらいは同年代いるよと。
さすが長寿県 長野。
みなさんいつまでもお元気で。
LOVE & PEACE
愛から平和まで歌うシンガーソングライター
清水まなぶ ホームページ→ http://manaboom.net
FBページ→ https://www.facebook.com/manabu3
歌と語りの講演会
回想プロジェクト→ http://artemisplaces.wix.com/kaisou
今回は人口約4600人、
今 大相撲で大活躍の御嶽海 出身地
木曽郡上松町におじゃましました。
先日紹介した赤沢自然休養林もそうですが
森林鉄道の面影が町のいる所に残る町。
中央アルプス 木曽駒ヶ岳がそびえ
木曽川が流れる町でお話を聞かせてくれたのは
2人の伊藤さん長野さんの3人
みなさん幼なじみ。
なんと90歳です
いやぁ〜お元気^^

小学校の頃を振り返ってもらうと、
「人数は今の倍くらいいたかな〜
礼、智、仁、勇組まであったから。」
ん?
それ学校のクラスの呼び名ですか?
そう当時学校のクラスは1組2組とかではなく
礼、智、仁、勇、
高等科では 信、義、和 という組だったとか。
儒教の五常を元にしているのかな、、?
「一組50人くらいいたんじゃないかな?」と。
履物は藁草履で歩くから
学校の廊下は藁くずで散らかっていましたよ〜
でも磨かれてピカピカ綺麗だったと。
学校でも「前、前、後ろ後ろ」
なんていう銃剣術もやりましたよ。
勤労奉仕で授業というよりお手伝い。
人糞を肥料としていたから、
それを畑にまいたりした記憶が、、、
そして支那事変がはじまった時のこと
大東亜戦争(太平洋戦争)が
はじまった時のこともよく覚えていて、
兵隊さんを毎日のように送り出していたと。
9時9分の列車
万歳万歳と見えなくなるまで駅で見送った。
まだ子どもだから(6年生?)
旗を振るくらいだけど
日課のようになっていた。
食料事情は戦後の方が大変だった。
何でも山に生えているものは口にしましたよ。
今も ぎょうぶ(りょうぶ?) を見ると
食べていた事を思い出すと。
うさぎ狩りもやった。
そして荻野原が楽しい思い出の場所で
運動会をやったり遊ぶ場所だったとも。
そんな中 一番記憶に残っている事を聞いてみると、
伊藤(政恵)さんはB29がブンブンと頭上を
飛行していったことを鮮明に覚えていると。
結果的には爆撃はなかったが、
空襲警報が鳴る度におじいちゃんの手を引き避難した。
そして看護士をしていたので
病院のラジオで玉音放送を聞いた。
し~んとした中 みんなで聞いていましたよ。
まさか負けるとも思わずに、、、
伊藤(澄子)さんは川崎の富士通の工場で働いていた。
上松からも4人ほど一緒に行っていた。
終戦間際には荷物を背負ってごろ寝、
空襲警報が鳴るといつでも逃げられる体勢で過ごしていた。
毎晩毎晩 逃げているので、そのうち逃げるのが嫌になって、
今夜はここで死んでもいいから、動きたくないと思ったことも。
焼夷弾の落ちる音が聞こえる中、
友達のリックに焼夷弾があたってリックがバラバラに、
しかし運良く怪我もなく命は助かった。
ほんとに紙一重、運なのか?
胸をなでおろす。
そして敗戦3日後には故郷へ帰ることになったが、
帰りの南武線の中でのこと、
髪の毛 三つ編みのお下げが珍しいのか
米軍の兵士が私の髪の毛を手に取った。
それは何をされるかと怖かった。
きっと三つ編みが珍しかったんでしょう〜
そして終戦とともにケチャップが
入ってきたことも覚えている。
もう一人 長野さんはなんといっても火事の事を思い出すと。
実はこの上松は火事の多い町としても
知られていたようなのです。
戦中 昭和20年5月に大火事があって
大変だったことが記憶に残っていたり、
また昭和25年にも町が全滅するほどの大火があったと。
木材の町 蒸気機関車の火の粉がよく飛んできたからなのか?
起伏が激しく 消火用の水を
川から汲み上げられなかったからなのか?
いやいやその他の原因が?
原因究明で喧嘩になったこともあったそうな、、、
水といえば、
この町にある観光名所
「寝覚めの床」
県歌 信濃の国にも登場するスポットなので
知っている人も多いと思います。
3人にあそこはオススメの場所じゃないですか?
と聞いてみると
「今は水がなくてダメ」と即答w
昔を知っていると 見る影がないそうです。

今は岩だけになってしまった。
昔は水が満々としていて見事だったと。
やはりダムが出来てから。
当時の町長が水を売っちゃったから、、、
こっちの言葉でいえば「とろくさい」と。
そんな愛嬌もあるおばあちゃんたち
元気ですww
その健康の秘訣は?
「食べて笑って動くことくらい」と。
長野さんはお祭りも大好きだとか。
伊藤さんはバンドーラやバイオリンを作ったり弾いたりの
趣味があるから元気なのかな〜と。
モットーは出来ても出来なくても
休まない事だそうだ。
楽器を作ったり演奏したりするようになったのも
70歳過ぎたころからだと。
年齢は関係なく いつからでも何でも出来るよ〜
という希望を教わります。
興味があるものには
チャレンジ!!ですね。
いやぁ~90歳で楽器を作ったり演奏したりって憧れです。

そして今 若者や社会に伝えたい事も聞いてみた。
やっぱり挨拶かな。
挨拶が大事というけど
学校の先生でさえしない人も増えている。
挨拶運動しているから
地域のみなさんも見守って下さいっていうけど
先生がしなきゃしょうがない。
まずは大人がしっかり挨拶すること。
そもそもそんな運動をするんじゃなくて
自然と大人から学ぶことだし、
親も先生も自分たちからその姿を見せないと。
子ども達の元気な声を聞きたい。
するとお一人が、
「でも中にはいるよ〜」と。
先日ゴミを出す日に自分が運んでいると
面識もない5、6年?の男の子が来て
持って一緒に運んでくれた。
名前を教えてといっても、
いいって行ってしまったけど
しっかり挨拶も出来る子だったな〜
きっとまわりにそういう大人がいるんでしょうね。
困った人にはそっと手を差し伸べる。
そういう気持ちを持った人が増えればいいですね。
争いも少なくなっていくだろうに。
地域の伝統とともに、大人が受け継がなければいけないもの
いろいろと教わります。
先日の御柱も見に行ってきたというほど
元気な方々ですが、
まだ同級生グループで6人
20人くらいは同年代いるよと。
さすが長寿県 長野。
みなさんいつまでもお元気で。
LOVE & PEACE
愛から平和まで歌うシンガーソングライター
清水まなぶ ホームページ→ http://manaboom.net
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歌と語りの講演会
回想プロジェクト→ http://artemisplaces.wix.com/kaisou
Posted by manaboom at 10:00
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