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2016年03月23日

本州のへそ 小川村

70年前の記憶の聞き取り、今回は長野県の北部、
縄文おやきや本州のへそ(重心地) でも有名な
2600名程が暮らす小川村です。
 
一月の雪積もる村でお話を聞かせて下さったのが
元村長の鎌倉さんと森さんのお二人。

鎌倉さんのご自宅におじゃますると戦中の古い写真が、、
早速ですが終戦の時のこと覚えていらっしゃいますか?

本州のへそ 小川村
 
「一番右に写っているのが父なんだけど
 ちょうど父のお兄さんの葬儀をやっている時、
 お勝手にあったラジオから流れてきたのが玉音放送」

ガーガーピーピーで聞き取りづらかったようですが、
大人の人たちが「どうやら負けたらしいぞ」
と言っているのを強烈な印象で覚えていた。

みんな勝てると思っていたし、
兵隊に行きたいと思っていたし、
パイロットに憧れていたので半信半疑、
「そんな事ありっこない」
戦慄が走ったと。
 

戦争が始った日ももちろん覚えている。
それから地域の成人男性は兵隊になった。
太鼓を鳴らしながらバス停まで皆で見送った。


小学校5年の時 終戦を迎えた森さん
負けたと聞いた日は、
「これで苦しみが無くなるな〜」
なんて思ったと。 

「なんと言っても一番は食料不足、
 食べ物が無かったんだから」

生きていくのに必死で
芋のつるでも何でも食べた。

学校で先生が言ったことを今でも覚えている。 
「雑草でもなんでも食え」と。
 
でも毒草はいけないから
まずウサギに食わしてみて
ウサギが食べたら大丈夫だと言われた。

「雑草が当時 子どものおやつ」
 
ニワトリの卵は高級だったからお金に換えたり
病人にあげたり自分たちは食べられなかった。

当然 米のご飯は食べられない。
学校に行っても弁当泥棒があったくらい。
嘘じゃない。
「だいたい誰だかわかっているけど
 言わなかったな~」

トウモロコシの粉が配給になり、
そんなモノを食べていた。

本州のへそ 小川村

そうバス着く時間には、
毎回4、5人はリックを背負って降りて来て、
穀類が欲しいなんて
農家を一軒ずつまわっていた人もいたことを覚えている。
「でもこっちも売るものがないから、
 雑談して別れたりが何年も続いたよ」

舗装もされていない道、
雨が降れば長靴がとられてしまう程の土壌
そんな土地でも隙間があれば何でも植えた。
そしてまたそれが盗まれてしまったり。

「耕し天に至る。以って民は貧なるを知るべし」
なんて終戦後に帰ってきた人が俺に教えてくれた。
 

またグラマンが飛んでいく姿も印象に残っている。
電球の周りに蛇腹式のカバーを被せたり、
風呂敷で光が漏れないようにしたことも覚えている。
「今考えれば、こんな山の中に空襲しっこないのに」
と振り返る。
 
空襲と言えば長野空襲の音は聞こえたようで、
「高射砲だと思うんだけど、
 親父と畑で仕事している時に
 ドカンドカンと鳴った」
 ここでも音だけは聞こえたよ。」
と言うのは森さん。

 
半日は勉強、半日は農作業。
防火訓練といえば
目をおさえて耳の鼓膜を
破られないように手でおさえる。
そんな訓練もした。

本州のへそ 小川村

終戦の前の年は木刀を作らされた事も覚えている。
材木はないから山へ行って木を探し
綺麗に磨いて木刀を作る。
何故かと言えば、
アメリカ兵が落下傘で下りてくるから
それを叩き殺せという教育。


だから戦後ジープでアメリカ人が
この村に来たときはビックリした。
 
鎌倉さんが小学校でぞうきん掛けをしている時、
靴を履いたまま校内に入ってきて職員室へ。

「恐ろしいだし、おっかねえだし
 始めて見た外国人、でかいし
 怖いけど見たいし。」
 
銃の処分と刀狩りにきたらしい。
当時 親もまじめだったから、
刀もみんな差し出してしまった。

戦後といえばチョコレートを持って帰ってきた兵隊さんがいて
始めて食べて美味かったことも覚えている。

本州のへそ 小川村

藁布団で寝ていた当時からすれば
今は平和なんてもんじゃない
家もホテルのようで、
平和ボケになっていないかと心配。

そして無関心、自分勝手、
貧富の差以上に人情が薄れていないかと心配だと。。。

 
昔は食べモノが無ければあげたりもらったり、
また、いけないものはいけない、
と近所の人でも怒ったもんだが
この辺でももうそんな関係は少ない。

いたずらした時には、
よその親でも自分の親の所に言いにきて、
子どもを近所中みんなで悪い方にいかせなかった。

「人情がなくなったのは、
 家庭や教育現場が何かおかしくなっているかな?」
と鎌倉さん。
 
言葉づかいや礼儀も悪くなっている。
ハイレベルな教育を受けているだろうけど、
しつけに関しては昔のように出来ていないと感じる。
核家族だったり大家族でなくなってきて
常識的なことを教えるところもないのかな、、?

 
自分たちの頃は 教科書は新聞紙
あの大きさのやつを
自分で切って針で縫って作ったし、
ろくに教わっていないから、
自分で考えるしかない。
「本買って覚えろ」だよ。

ノート代わりには石盤、
毎日学校に持っていっていた。

「知ってる?」
 
石の板に石筆で書いて覚えたら消す。
それしか無かった。

遠足だって6時間かけて長野まで。
瀬戸物の水筒か竹筒さげて
足袋もなく、わらじ履いて
善光寺見て信毎見て帰ってくる。

くたびれたことを今でも覚えている。
でもその経験が大事。
 
6時間も歩けとは言わないけど、
今、危ないから遠足も行わないところがある?
運動会で順位もない?
そんなことは考えられない。
 
「リンゴを育てるとき学んだけど、
 生育のため枝を切るように
 延ばし放題じゃだめだと思う」と森さん。
地域や大人が教えてあげないと。
 

そういえば以前ブログで触れたかもしれないけど、
今の子ども達の脳の発達が遅れている原因、、
こう見ると豊かすぎる現代社会の生んだ結果と
教授のお話とリンクします。
便利すぎて見えずらくなっていることや
大人が子ども達の脳の発達の一部を妨げてしまっていることなど、
大切なこと学びますね。

本州のへそ 小川村

お二人に熱く語っていただいた小川村、
平成の大合併でも合併する事無く歩んでいる村ですが、
昭和30年までは南小川と北小川に分かれていたんですね。
 
そして先日 歴史研究家の大日方先生のお話を聞きに行き
自分もはじめて知ったのですが、
戦時中は南北どちらの村長も国策であった
満蒙開拓の分村を断っていたそうです。
自分が聞いていた中では長野県内3つの村の村長が
分村の勧めを断っていたと記憶していましたが、
実は南北小川村含め6つの村の村長が視察の結果、
「村民は満州へは送らない」と決断をしていたようです。
 
大発見ーー!!
日々学びです。
 
先生にお聴きすると、
やはりそういう資料はなかなか外には出ていないと、、、
これだけのネット社会でもヒットしなかったもんな。
 
歴史は捩じ曲げられていることもあるかもしれないし、
すべてが正しいのか?ということも
しっかり元を調べていかなければいけませんね。
 
しかしどの村長も当時とすればとても勇気のいる決断。
命をも狙われかねない非国民扱い覚悟だったことでしょう、、
頭が下がります。
 
理想の未来を創り上げるために
そこから僕たちが学ぶことは?
 

まずは世の中や周りに流されること無く、
しっかり自分の頭で考えて判断していくことを
身につけたいですね。
その先を見る目が豊かな地域や人を育む事でしょう。
 
長い時間とても貴重なお話ありがとうございました!
ますますお元気で。 
また綺麗な景色を眺めに寄らせていただきます^^

本州のへそ 小川村

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