2016年03月08日
水舟の里 須原宿
長野県南西部 木曽郡の大桑村
3800人程が暮らす木曽谷の南部の村。
今回はこの村での聞き取り。
大桑、始めて寄らせてもらったかも、、、w
お話を伺ったのは田中昭三さん87歳
実家はもともと宿場で旅籠屋を営んでいたようですが、
7人兄妹で家計的にそんなに余裕もなかったので、
先生の勧めもあり今の信州大学 長野師範学校の予科へ入学。
昭和18年 当時は官費があり毎月25円の支給があった。
そこから寮費食費を抜いても15円程残ったと。
当時の大日本帝国は、いかに教育と軍隊に
力を入れていたのかということがわかる。
「当時、田舎の勉強好きは
陸軍幼年学校か師範学校に行ったね。
あとは予科練も募集がたくさんあったし
満蒙開拓義勇軍に行ったも者も」
予科一年目は平穏だったが、
19年の8月、予科二年の120人は
学徒動員令で東京大田区蒲田の
特殊製鋼株式会社鎌田工場で働く事になった。
昼間は作業、夜は勉学。

最初は浅草に映画を見に行ける程
穏やかな日常だったが次第に不安に。。
そしてあの昭和20年3月の東京大空襲は
鎌田からも下町が真っ赤に燃えているのが見えたと。
当時は輸送係に配属され
横須賀に行ったりあちこちの工場へ
トラックで配達する仕事をしていた。
当時の日本の青壮年はほとんどが軍隊へ徴兵されていて
人手不足だったため、トラックの運転手は
朝鮮半島から徴用されてきた人たち。
3月10日空襲から3、4日後 製品の配達の帰りに
トラックの本社が深川にあるということで
心配だから寄ってみようと車を走らせる。
隅田川を渡って目に入ってきたのは見渡す限りの焼け野原、
車が進むにつれて何とも言えない死臭が漂い
ウッと吐き気をこらえるのがやっと。
目を凝らすとまだ運河に遺体がたくさん浮かび
トタン板の下にも黒こげの遺体がそのまま。
まるで地獄絵のような様相に唖然とするばかり。
「隅田川の堤防に行ったら
死体が何百体と並べてあってね
だぁ〜っと、
生き残った人たちが泣きながら確認していた。
その日の夕飯は腹が減っているのに食べられなかった」と。
その後 4月には自分たちのいた大森や鎌田も空襲にあう。
いつも空襲は夜だ。
空襲警報で飛び起き、ものすごい爆音とともに外へ出てみると
もう辺り一面火の海。
飛び散った焼夷弾の油脂が宿舎の壁や地面で燃えている。
「六郷の河原へ逃げろ!」
の声で夢中で逃げて難を逃れた。
多摩川の下流部は六郷川とも呼ばれていた。
夜が明ける頃 堤防に上がってみると
寄宿舎はほとんど無傷で残っていた。
しかしこれはただの幸運だけではなく
逃げ遅れた仲間が必死で消火してくれたようで、
河原へ避難した自分たちは合わせる顔がなく小さくなっていたと。
被害者も出ず全員無事だったのはよかった。
しかしその後も無差別爆撃は続き
工場も生産不能になり皆長野へ戻る事に。
そして終戦。
師範学校の講堂で玉音放送を聞く。
何言っているかわからなかったが
ホッとした気持ちと、
絶対負けないと思っていたのに複雑な心境。
卒業後は開田の学校から教師人生がはじまる。
なんといっても戦後は食料がなく大変だったと。
そんな戦中戦後を過ごしてきて
今伝えたいことは、やはり
「戦争だけは二度と起こしてはいけない」
「やったらやりかえすなんて、
ほとんどメンツのためだけでやっているよね、、、」
最後にこの村の名所を聞いてみると、
近いからと案内していただきました。
大桑村には中山道39番目の宿場 須原宿があって
木をくり抜いて作られた水飲み場 水舟があったことから
水舟の里 とも言われています。

そんな須原宿にあるお寺
定勝寺は、山門、本堂、庫裡のいずれも
桃山建造物として国の重要文化財に指定されているとのこと。
長野県内で3つそろっての重要文化財はここだけとか?
庫裡、本堂にも案内いただきましたが
鶯張りや透かし掘りなど目や耳で400年の歴史を楽しめます。

また入り口のしだれ桜も見事!!
桜の咲く時期に足を運んでみたい名所のひとつだ。

その他にも阿寺渓谷も神秘的だとか、、、
ますますゆっくり立ち寄りたい村です。
貴重なお話や街の案内までありがとうございました。

そして今日は国際女性デー 長野集会で講演します
午後18時半〜 アイビースクエア モリヤホールです。
直接聞いた話から私たちが学び受け継いでゆく事はなに?
歌と語りの講演会、各地で声をかけていただいています。
学校関係やPTA関係のみなさんも気軽に声を掛けて下さい。
回想プロジェクト→ http://artemisplaces.wix.com/kaisou
今日も素敵な一日を〜
Love & Peace
愛から平和まで歌う シンガーソングライター
清水まなぶ → http://manaboom.net
3800人程が暮らす木曽谷の南部の村。
今回はこの村での聞き取り。
大桑、始めて寄らせてもらったかも、、、w
お話を伺ったのは田中昭三さん87歳
実家はもともと宿場で旅籠屋を営んでいたようですが、
7人兄妹で家計的にそんなに余裕もなかったので、
先生の勧めもあり今の信州大学 長野師範学校の予科へ入学。
昭和18年 当時は官費があり毎月25円の支給があった。
そこから寮費食費を抜いても15円程残ったと。
当時の大日本帝国は、いかに教育と軍隊に
力を入れていたのかということがわかる。
「当時、田舎の勉強好きは
陸軍幼年学校か師範学校に行ったね。
あとは予科練も募集がたくさんあったし
満蒙開拓義勇軍に行ったも者も」
予科一年目は平穏だったが、
19年の8月、予科二年の120人は
学徒動員令で東京大田区蒲田の
特殊製鋼株式会社鎌田工場で働く事になった。
昼間は作業、夜は勉学。

最初は浅草に映画を見に行ける程
穏やかな日常だったが次第に不安に。。
そしてあの昭和20年3月の東京大空襲は
鎌田からも下町が真っ赤に燃えているのが見えたと。
当時は輸送係に配属され
横須賀に行ったりあちこちの工場へ
トラックで配達する仕事をしていた。
当時の日本の青壮年はほとんどが軍隊へ徴兵されていて
人手不足だったため、トラックの運転手は
朝鮮半島から徴用されてきた人たち。
3月10日空襲から3、4日後 製品の配達の帰りに
トラックの本社が深川にあるということで
心配だから寄ってみようと車を走らせる。
隅田川を渡って目に入ってきたのは見渡す限りの焼け野原、
車が進むにつれて何とも言えない死臭が漂い
ウッと吐き気をこらえるのがやっと。
目を凝らすとまだ運河に遺体がたくさん浮かび
トタン板の下にも黒こげの遺体がそのまま。
まるで地獄絵のような様相に唖然とするばかり。
「隅田川の堤防に行ったら
死体が何百体と並べてあってね
だぁ〜っと、
生き残った人たちが泣きながら確認していた。
その日の夕飯は腹が減っているのに食べられなかった」と。
その後 4月には自分たちのいた大森や鎌田も空襲にあう。
いつも空襲は夜だ。
空襲警報で飛び起き、ものすごい爆音とともに外へ出てみると
もう辺り一面火の海。
飛び散った焼夷弾の油脂が宿舎の壁や地面で燃えている。
「六郷の河原へ逃げろ!」
の声で夢中で逃げて難を逃れた。
多摩川の下流部は六郷川とも呼ばれていた。
夜が明ける頃 堤防に上がってみると
寄宿舎はほとんど無傷で残っていた。
しかしこれはただの幸運だけではなく
逃げ遅れた仲間が必死で消火してくれたようで、
河原へ避難した自分たちは合わせる顔がなく小さくなっていたと。
被害者も出ず全員無事だったのはよかった。
しかしその後も無差別爆撃は続き
工場も生産不能になり皆長野へ戻る事に。
そして終戦。
師範学校の講堂で玉音放送を聞く。
何言っているかわからなかったが
ホッとした気持ちと、
絶対負けないと思っていたのに複雑な心境。
卒業後は開田の学校から教師人生がはじまる。
なんといっても戦後は食料がなく大変だったと。
そんな戦中戦後を過ごしてきて
今伝えたいことは、やはり
「戦争だけは二度と起こしてはいけない」
「やったらやりかえすなんて、
ほとんどメンツのためだけでやっているよね、、、」
最後にこの村の名所を聞いてみると、
近いからと案内していただきました。
大桑村には中山道39番目の宿場 須原宿があって
木をくり抜いて作られた水飲み場 水舟があったことから
水舟の里 とも言われています。

そんな須原宿にあるお寺
定勝寺は、山門、本堂、庫裡のいずれも
桃山建造物として国の重要文化財に指定されているとのこと。
長野県内で3つそろっての重要文化財はここだけとか?
庫裡、本堂にも案内いただきましたが
鶯張りや透かし掘りなど目や耳で400年の歴史を楽しめます。

また入り口のしだれ桜も見事!!
桜の咲く時期に足を運んでみたい名所のひとつだ。

その他にも阿寺渓谷も神秘的だとか、、、
ますますゆっくり立ち寄りたい村です。
貴重なお話や街の案内までありがとうございました。

そして今日は国際女性デー 長野集会で講演します
午後18時半〜 アイビースクエア モリヤホールです。
直接聞いた話から私たちが学び受け継いでゆく事はなに?
歌と語りの講演会、各地で声をかけていただいています。
学校関係やPTA関係のみなさんも気軽に声を掛けて下さい。
回想プロジェクト→ http://artemisplaces.wix.com/kaisou
今日も素敵な一日を〜
Love & Peace
愛から平和まで歌う シンガーソングライター
清水まなぶ → http://manaboom.net