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2015年12月29日

特攻隊員の生の声

いよいよ2015年もあと2日
今年は戦後70年の節目ということもあり
いろんなところで戦争、平和の特集や企画が行われていた。

自分もTV 、ラジオはじめ
様々な所で機会をいただき歌ったり取材を受けた。
 
そんな戦争体験記の曲を作りだして8年、講演活動も7年程になる。
内容など年々 深くなっているとは思うけど
続けさせていただくことも有り難いし、
そんな活動を知ってもらい 各地で声を掛けていただくことは嬉しい。
 
さらに今年は長野県内 全市町村での聞き取りをしようと
桜の開花時から歩き出した。
残念ながら年内に全市町村はまわりきれないけど
52市町村に足を運び43市町村では話を聞けた。
 
特攻隊員の生の声

長野県は広いw


まだ聞いたお話全員分 アップは出来ていませんが、、、
今年の締めに紹介するのは
中でも印象に残っているお一人
安曇野に暮らす 小野さん 94歳

なんと特攻隊の生き残りだ。
飛び立つ前に終戦になったとかではない、
飛び立っていったにも関わらず生き残ったのだ。

自分も「最後の手紙 - MOTHER-」で特攻隊の体験記はすでに曲にしているが
直接 特攻隊員として飛び立った方に話を聞くのは初めてかもしれない。

特攻隊員の生の声
 
話を聞きに伺ったのは、まだ暑い夏の日のこと。
ご家族や親戚のみなさんも温かく迎えてくれました。


東筑摩郡片丘村(現 塩尻市)出身の小野さん
松本第一中学校(現 松本深志高校)卒業後 
先生に相談し東京大森の工場で働きながらも大学へ。
その時に徴兵。

軍から大学を通じて成績の良いものを
「特操一期生」として選抜し、訓練1年を終えれば少尉にするというスカウトだったとか。
少尉階級の給与、待遇は良く、当時平均月収が50円程に対し
特操パイロットは70円+飛行加報150円の計220円だった。

面接の時はポケットに血書、血判を押し用意した心願書を入れていた。

昭和18年10月1日 熊本県限生教育隊へ入隊
一ヶ月間内に単独飛行を成功させたいという思いもあり
見事11月には単独飛行に成功。
 
昭和19年6月三重県明野基地配属となり
10月初旬 B29の迎撃、撃墜命令。
その後戦闘は3回を数えるが、
交戦後はただひたすら手の震えが止まらなかった、
続く出撃には楽しい思い出を考えながら飛んだと。
 
11月1日少尉に任官、とたんに2日に特攻の命令が!
いよいよ軍から「もはや戦闘機で体当たりするしか勝ち目がないと」
そう言われたときは「それしか方法がないなら仕方ないだろう」と思った。

そして特攻に志願するかどうか
以下4種の言葉で意思っを表示するように言われる。

1、白紙
2、希望
3、熱望
4、切望

小野さんは「希望」
理由は、これは自殺をすすめるものであって
必ず死ぬということを望むわけがない。
しかし、家族や国を守るために仕方ないなら出撃するという思いだった。

他の隊員がなんと書いたかは知らないが
皆 特攻へ参加した。

特攻隊員の生の声

石田隊長はじめ11名11機
12月1日 出撃 (ところどころ20、29日とも?)
前日は父と婚約者が基地を訪れ3人で旅館で過ごした。
出撃準備に追われ深く語らい合う事はなかったと。
この日、家族、婚約者に遺書を書き残した。
まさに最後の手紙だ。

一機一機と砂塵を巻き上げ舞い上がり
上空を一周しながら見事な編隊を組んで 翼を左右に大きく振って
訣別の挨拶をして西の空へ吸い込まれていく。

しかしエンジンの調子が悪く着陸
宮崎県 新田原基地で待機
12月3日にフィリピンレイテ沖へ出撃
しかしまた沖縄上空でエンジン、プロペラのトラブル
そして一機だけ地上に墜落、、、

特攻隊員の生の声
そのまま陸軍病院へ。

戦友はみな特別攻撃 突入していった。

 
昭和20年には東京日赤病院へ。
東京大空襲も目の当たりにした。

そして自宅療養の最中に終戦、
「もう死と隣り合わせにならなくて良い」と安堵する。
戦争が続いていれば部隊へ復帰する予定でもあった。

しかし空軍部隊の中で生き残ったことは辛かったと。
世間からの肩身も狭く感じているとも。


二度もエンジントラブルにあい
墜落するも助けられる。

どのくらい意識がなかったのか、、、
気を失っているとき、
遠くのほうで 小野〜 小野〜
という声が聞こえ
真っ暗な中 小さな光が見え
その光が大きくなったときに目が覚めた。

運命とは?
 
まるで映画のような話だ。

最後に残した手紙の一句
ご本人に読んでいただきました。

特攻隊員の生の声


「おおぎみの、、、  
 
 なんだかわからないね〜 」と小野さん
 今後解読したいと思います。

「みんなで軍歌 もつくりましたよ〜」
そんな歌を作る事も隊での楽しみの一つだったと。


写真も多く残っていましたが、
でもこれが70年前に実際にあったこと。
この事実を風化させずに伝えることは簡単ではないが
平和の為に、理想の未来を築いていくためにはとても大事な事だと
あらためて思います。

貴重なお話 ありがとうございました!
そしてこれからもお元気で。

特攻隊員の生の声


秋以降 自分もイベントが続いていたり
農家の方は繁忙期になったりで
連絡は取れても なかなかお話を聞く時間が合わず
聞き取りの進みが悪くすみません、、、
 
まだ目処がたっていない市町村もありますが
2016年早いうちにまわりきって
みなさんに報告出来ればと思っています。

 
そして今年 たくさんのお話を聞かせてくれたみなさん。
突然にも関わらず温かく迎えてくれたみなさん
ありがとうございました!

来年もまた笑顔で会いましょう〜
これからも笑顔あふれる
ふるさとでありますように〜
LOVE & PEACE

回想プロジェクト→ https://www.facebook.com/kaisou1945






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Posted by manaboom at 18:00 │聞き取り