2015年11月30日
海に沈む巡洋艦
今回は先日もおじゃました飯田市からの体験談
70年前の記憶です。
少し前ですがお話を聞かせてくれたのが、
大正15年生まれ 代々農業をなさっている関島さん。
鼎村の小学校 高等科を出て家の仕事農業をしていた。
そして17歳の時 志願して海軍へ。
6人兄妹だったが兄二人も招集されて故郷をあとにしていた。
兄のところへ役場の人が招集令状持って来たのを覚えている。
当時は悲しいというよりも当たり前だったから、
兵隊に行けばようやく一人前になったかな〜と。
兄二人が兵隊に行ってしまっていたということもあり
親は反対したが徴兵検査に合格し 昭和18年5月に入隊。
同級生でも鼎村からも何人か志願兵で行ったし
満州の義勇軍にも各家の次男三男は多く行っていた。
実際軍隊に入ってみると
入る前に想像していたものとは違い辛かったと。
何よりも大変だったのは 海での練習、
泳げなかったから。
その後横須賀から呉まで汽車で移動し
巡洋艦 全長174m 能代に乗り込み任務に就く。
船の上での生活は陸と違って何もかも不便だった。
船中では水雷科の発射発令所にいたが、
魚雷を発射する機会はなかった と。
おもに南方のトラック島に行き
各地物資の輸送などしていた。
何度か攻撃にあい
一度横須賀港に帰り修理をしたことも。
その時だけが一時の休暇のようなもの。
その後またラバウルまで。

しかし昭和19年10月26日
ミンドロ島付近 敵機に攻撃され能代は沈没、、、
反撃しようとしても砲芯が焼け 弾が出なかったと。
それを知ってか反復攻撃 敵もどんどん近づき撃ってきた。
でかい音がして体が左の方に傾き
船底は真っ暗、甲板も攻撃されているので上がれず
いよいよ航行不能に。
魚雷にやられたのだ。
沈下をはじめた船から皆 海に飛び込む。
しかし自分は泳げない、、、
弾薬箱を持って飛び込んだ。
しかし衝撃で手を離してしまい 犬かき状態
溺れながら苦しい〜とバタバタしているところに
「掴まれ〜」と角棒を誰かが流してくれた。
しばらくして駆逐艦が救助にきて
ロープを垂らし二人で引き上げてくれた。
それから気を失った。
これが生と死の境、
その時も100人ちかくは亡くなっていると。
その後シンガポールへ。
船の任務は続き護衛でインドネシア辺りに行っているとき
8月17日か18日頃に終戦を聞いた。
その時はこれで日本へ帰れる希望を持てたと思った。
それから捕虜としてシンガポールで過ごし掃除の作業などして過ごす。
見張りにはサボらないようにピストルを突きつけられたことも。
現地では食べ物にはそれほど困らなかったという。
マラッカ海峡に航行不能の重巡洋艦 妙高も沈めに行った。
姉妹艦の羽黒が沈んだ場所だ。
それを最後に昭和21年の8月に日本に帰ってくる。
帰ってきた故郷は 空気が変わっていて何を話していいか戸惑った。
行く時は軍国主義、万歳で見送られるほど勇ましかったが、
帰ってくると真逆の平和主義というか
まったく空気感が違っていたので会話が出来なかった。
船の上では情報も無いし、もう決まった話しかなかったから、、、
そんな生死の境をくぐり抜けてきた関島さんから最後に一言、
「平和ってのは今こうしてみんなと話していること、
戦争ってのは相手を倒さんと自分がやられる
だから勝たなければいけない。
どうも今 世の中そんなような傾向になっているんじゃないか?
と心配している。
過去にあった戦争の怖さもじゅんに薄れていってしまうと
当たり前の事がそうでなくなってしまう。
一人一人が考えなければいけない。
みんながその気にならんと平和ってものは保てない。」
とメッセージもいただきました。
貴重なお話 聞かせていただき
ありがとうございました!
これからも お元気で。
LOVE & PEACE

愛から平和まで歌う シンガーソングライター
清水まなぶ → http://manaboom.net
回想プロジェクト→ http://artemisplaces.wix.com/kaisou
70年前の記憶です。
少し前ですがお話を聞かせてくれたのが、
大正15年生まれ 代々農業をなさっている関島さん。
鼎村の小学校 高等科を出て家の仕事農業をしていた。
そして17歳の時 志願して海軍へ。
6人兄妹だったが兄二人も招集されて故郷をあとにしていた。
兄のところへ役場の人が招集令状持って来たのを覚えている。
当時は悲しいというよりも当たり前だったから、
兵隊に行けばようやく一人前になったかな〜と。
兄二人が兵隊に行ってしまっていたということもあり
親は反対したが徴兵検査に合格し 昭和18年5月に入隊。
同級生でも鼎村からも何人か志願兵で行ったし
満州の義勇軍にも各家の次男三男は多く行っていた。
実際軍隊に入ってみると
入る前に想像していたものとは違い辛かったと。
何よりも大変だったのは 海での練習、
泳げなかったから。
その後横須賀から呉まで汽車で移動し
巡洋艦 全長174m 能代に乗り込み任務に就く。
船の上での生活は陸と違って何もかも不便だった。
船中では水雷科の発射発令所にいたが、
魚雷を発射する機会はなかった と。
おもに南方のトラック島に行き
各地物資の輸送などしていた。
何度か攻撃にあい
一度横須賀港に帰り修理をしたことも。
その時だけが一時の休暇のようなもの。
その後またラバウルまで。

しかし昭和19年10月26日
ミンドロ島付近 敵機に攻撃され能代は沈没、、、
反撃しようとしても砲芯が焼け 弾が出なかったと。
それを知ってか反復攻撃 敵もどんどん近づき撃ってきた。
でかい音がして体が左の方に傾き
船底は真っ暗、甲板も攻撃されているので上がれず
いよいよ航行不能に。
魚雷にやられたのだ。
沈下をはじめた船から皆 海に飛び込む。
しかし自分は泳げない、、、
弾薬箱を持って飛び込んだ。
しかし衝撃で手を離してしまい 犬かき状態
溺れながら苦しい〜とバタバタしているところに
「掴まれ〜」と角棒を誰かが流してくれた。
しばらくして駆逐艦が救助にきて
ロープを垂らし二人で引き上げてくれた。
それから気を失った。
これが生と死の境、
その時も100人ちかくは亡くなっていると。
その後シンガポールへ。
船の任務は続き護衛でインドネシア辺りに行っているとき
8月17日か18日頃に終戦を聞いた。
その時はこれで日本へ帰れる希望を持てたと思った。
それから捕虜としてシンガポールで過ごし掃除の作業などして過ごす。
見張りにはサボらないようにピストルを突きつけられたことも。
現地では食べ物にはそれほど困らなかったという。
マラッカ海峡に航行不能の重巡洋艦 妙高も沈めに行った。
姉妹艦の羽黒が沈んだ場所だ。
それを最後に昭和21年の8月に日本に帰ってくる。
帰ってきた故郷は 空気が変わっていて何を話していいか戸惑った。
行く時は軍国主義、万歳で見送られるほど勇ましかったが、
帰ってくると真逆の平和主義というか
まったく空気感が違っていたので会話が出来なかった。
船の上では情報も無いし、もう決まった話しかなかったから、、、
そんな生死の境をくぐり抜けてきた関島さんから最後に一言、
「平和ってのは今こうしてみんなと話していること、
戦争ってのは相手を倒さんと自分がやられる
だから勝たなければいけない。
どうも今 世の中そんなような傾向になっているんじゃないか?
と心配している。
過去にあった戦争の怖さもじゅんに薄れていってしまうと
当たり前の事がそうでなくなってしまう。
一人一人が考えなければいけない。
みんながその気にならんと平和ってものは保てない。」
とメッセージもいただきました。
貴重なお話 聞かせていただき
ありがとうございました!
これからも お元気で。
LOVE & PEACE

愛から平和まで歌う シンガーソングライター
清水まなぶ → http://manaboom.net
回想プロジェクト→ http://artemisplaces.wix.com/kaisou