2015年07月28日
14歳の志願兵
回想プロジェクトの活動を新聞で見て
連絡いただいた 丸山さん84歳
福祉施設の施設長をなさっているということで
仕事場の安曇野へおじゃましました。
自分たちが一番若い兵隊じゃなかったか?
生きているうちにどうしてもその戦争を語っておきたかったと。

日中戦争が勃発した昭和12年(1937年)七貴村
(現在の安曇野市明科七貴、池田町中鵜にあった村)
七貴小学校に入学。
徹底した軍国教育を受け、皆「神国日本は必ず勝つ」と信じていた。
10人兄妹の9番目
農家ではあったけど供出があったので食べ物には苦労した。
昼食にはさつまいも一本持っていっただけ。
太平洋戦争が始って2年目の昭和17年から
志願兵の年齢が15歳から14歳に下がっていたので、
昭和19年の10月初め、七貴村国民学校の22人が
大町の国民学校で志願兵試験(学科試験と身体検査)を受け
自分と友人小林の2人が合格。
12月の誕生日が過ぎ14歳となった昭和20年の正月
役場の職員から採用通知をもらう。

名誉なこと
飛び上がるほど嬉しかった!
そして14歳3ヶ月横須賀海軍通信学校へ入校。
海軍へ出征する日は親戚、隣組の人たちが激励会を開いてくれ
当時は配給のため貴重なお酒をはじめていただいた。
荻原神社で大勢の激励を受け必勝祈願をすると共に挨拶、
万歳三唱を受けて七貴国民学校へ。
そこでまた大激励をされて全校生徒約620人が日の丸の小旗で
明科駅まで見送ってくれました。
いざ入隊してみると一番若い14歳の自分たちは
体格や体力の違いで苦労する。
19歳と14歳では力も違い 足手まといになり
指揮棒?バットのようなもので頭やお尻を凄い勢いで殴られる。
一度合図を聞き漏らし
洗濯したふんどしを干しっぱなしにしてしまったときは
みんなの前に出され腕立て40回
それだけかと思えば四つん這いにさせられ
ふんどしを口にくわえさられ歩かされた。
班長の前では無駄口や笑う事さえ出来なかった。
どれだけ疲れていようが10秒も返事が遅れると
また「両足を広げ手を挙げろ 歯を食いしばれ」
という声とともにホームランを打つかのような力で
思いっきり後ろから 腿からお尻の辺りを叩かれる。
「痛い」と口にするようなものならもう一度。
ただただ耐えるしかなかった。
また20人くらいの班の仲間同士でもケンカになったこともあった。
主食は大麦
食べ物さえ十分ではなかった。
通信学校では甲板掃除 手旗信号 モールス信号など教えられるが
攻撃も激しくなり送信技術習得まではいかなかった。
毎日空襲。
機銃掃射も何度も受けた。
ものすごい音で、とっさに班長がこんな事では「負けるかもしれないな」
と口にした。直ぐに冗談と言い返したが本音だったと思う。
皆口には出来ないが頭の片隅にはあったと思う。と。
何人かは撃たれて亡くなった。
特攻隊志願者は一歩前に出ろ!!との声には
自分は一歩前に出た。
しかし出なかった人は
「貴様!命が惜しいのか」など
ひどく責められていた。
志願といっても半ば強制
絶対服従の世界をみた。
昭和20年7月に入り いよいよ本土決戦でアメリカ兵が上陸してきたら
爆弾を持って体当たりすると、私たちは全員 玉砕覚悟していた。
君が代は歌わなかったが
海行かば を毎日 朝夕歌わされた。
8月15日 お寺の庭に集まれという号令で
玉音放送を聞く。
自分たちのまわりは喜んでいた。
しかし翌日 班長、将校たちは狂ったようになっていた。
終戦になってもB29が一週間くらい朝から夜までずっと飛んでいた。
まもなく復員 手続きを取って帰るとき
中隊長が150名くらい集めて訓示を述べた。
「負けたけれども また何が起きるかわからないから
自宅で待機しろ!何かあったときはこの軍旗の下に集まれ!」と。
三浦半島を通行中ビックリしたのは
もうアメリカの戦車が3台も置かれていたこと。
無事家に帰って仏壇に線香をあげ感謝の祈りを込めたのは
8月26日の母親の命日だった。
14歳の夏。

「日本全国でも最年少の兵士だったんじゃないかな?」と丸山さん。
そこから学んだ事、伝えたい事は?
「戦争ほど悲惨なものはなく
愚の骨頂だ!」
「今いろいろ言われている憲法の問題
私は憲法九条の精神は貫いていかなければいけないと思います」
経験されている方の思い、気持ちです。
当時は自由さえなかったから。
全人類がこの九条の精神を持てれば。
武力を使わずお互い話し合いで折り合いがつけばいいんだけど、、、
「日中戦争から始るこの大戦
時の首脳部は一ヶ月くらいで終わらせると思っていたのだろうが
アメリカやイギリスがバックにいたこともあり長引く一方。
結局 解決出来ずアメリカ、イギリスを相手に大東亜戦争に突入していった。
海軍は戦争に反対していたのに。」
早めに終わらせておかなければならなかった。
「戦争だけは絶対やっちゃいけない
あれほど残酷で悲惨なものはない」
もし核戦争でもはじまったら人類が滅亡するだろう。」
最後にもお言葉いただきました。
そう昔の楽しい思い出の一つ プールはないから高瀬川や犀川で泳いだこと。
そして懐かしい神社 生まれ育った荻原地区の秋祭りの船
今でも受け継がれているようです。

これは一度見てみたい!
しかし教育とはいえ軍隊時代の辛い事をどうやって耐えられたのだろう?
そんな問に、丸山さんは
「故郷や家族が心の支えだった」とのこと。
自分にも温かい応援の言葉もいただきました。
長い時間ありがとうございました!
お元気で。
愛と平和を歌う シンガーソングライター
清水まなぶ→ http://manaboom.net
回想プロジェクト
https://www.facebook.com/kaisou1945
連絡いただいた 丸山さん84歳
福祉施設の施設長をなさっているということで
仕事場の安曇野へおじゃましました。
自分たちが一番若い兵隊じゃなかったか?
生きているうちにどうしてもその戦争を語っておきたかったと。

日中戦争が勃発した昭和12年(1937年)七貴村
(現在の安曇野市明科七貴、池田町中鵜にあった村)
七貴小学校に入学。
徹底した軍国教育を受け、皆「神国日本は必ず勝つ」と信じていた。
10人兄妹の9番目
農家ではあったけど供出があったので食べ物には苦労した。
昼食にはさつまいも一本持っていっただけ。
太平洋戦争が始って2年目の昭和17年から
志願兵の年齢が15歳から14歳に下がっていたので、
昭和19年の10月初め、七貴村国民学校の22人が
大町の国民学校で志願兵試験(学科試験と身体検査)を受け
自分と友人小林の2人が合格。
12月の誕生日が過ぎ14歳となった昭和20年の正月
役場の職員から採用通知をもらう。

名誉なこと
飛び上がるほど嬉しかった!
そして14歳3ヶ月横須賀海軍通信学校へ入校。
海軍へ出征する日は親戚、隣組の人たちが激励会を開いてくれ
当時は配給のため貴重なお酒をはじめていただいた。
荻原神社で大勢の激励を受け必勝祈願をすると共に挨拶、
万歳三唱を受けて七貴国民学校へ。
そこでまた大激励をされて全校生徒約620人が日の丸の小旗で
明科駅まで見送ってくれました。
いざ入隊してみると一番若い14歳の自分たちは
体格や体力の違いで苦労する。
19歳と14歳では力も違い 足手まといになり
指揮棒?バットのようなもので頭やお尻を凄い勢いで殴られる。
一度合図を聞き漏らし
洗濯したふんどしを干しっぱなしにしてしまったときは
みんなの前に出され腕立て40回
それだけかと思えば四つん這いにさせられ
ふんどしを口にくわえさられ歩かされた。
班長の前では無駄口や笑う事さえ出来なかった。
どれだけ疲れていようが10秒も返事が遅れると
また「両足を広げ手を挙げろ 歯を食いしばれ」
という声とともにホームランを打つかのような力で
思いっきり後ろから 腿からお尻の辺りを叩かれる。
「痛い」と口にするようなものならもう一度。
ただただ耐えるしかなかった。
また20人くらいの班の仲間同士でもケンカになったこともあった。
主食は大麦
食べ物さえ十分ではなかった。
通信学校では甲板掃除 手旗信号 モールス信号など教えられるが
攻撃も激しくなり送信技術習得まではいかなかった。
毎日空襲。
機銃掃射も何度も受けた。
ものすごい音で、とっさに班長がこんな事では「負けるかもしれないな」
と口にした。直ぐに冗談と言い返したが本音だったと思う。
皆口には出来ないが頭の片隅にはあったと思う。と。
何人かは撃たれて亡くなった。
特攻隊志願者は一歩前に出ろ!!との声には
自分は一歩前に出た。
しかし出なかった人は
「貴様!命が惜しいのか」など
ひどく責められていた。
志願といっても半ば強制
絶対服従の世界をみた。
昭和20年7月に入り いよいよ本土決戦でアメリカ兵が上陸してきたら
爆弾を持って体当たりすると、私たちは全員 玉砕覚悟していた。
君が代は歌わなかったが
海行かば を毎日 朝夕歌わされた。
8月15日 お寺の庭に集まれという号令で
玉音放送を聞く。
自分たちのまわりは喜んでいた。
しかし翌日 班長、将校たちは狂ったようになっていた。
終戦になってもB29が一週間くらい朝から夜までずっと飛んでいた。
まもなく復員 手続きを取って帰るとき
中隊長が150名くらい集めて訓示を述べた。
「負けたけれども また何が起きるかわからないから
自宅で待機しろ!何かあったときはこの軍旗の下に集まれ!」と。
三浦半島を通行中ビックリしたのは
もうアメリカの戦車が3台も置かれていたこと。
無事家に帰って仏壇に線香をあげ感謝の祈りを込めたのは
8月26日の母親の命日だった。
14歳の夏。

「日本全国でも最年少の兵士だったんじゃないかな?」と丸山さん。
そこから学んだ事、伝えたい事は?
「戦争ほど悲惨なものはなく
愚の骨頂だ!」
「今いろいろ言われている憲法の問題
私は憲法九条の精神は貫いていかなければいけないと思います」
経験されている方の思い、気持ちです。
当時は自由さえなかったから。
全人類がこの九条の精神を持てれば。
武力を使わずお互い話し合いで折り合いがつけばいいんだけど、、、
「日中戦争から始るこの大戦
時の首脳部は一ヶ月くらいで終わらせると思っていたのだろうが
アメリカやイギリスがバックにいたこともあり長引く一方。
結局 解決出来ずアメリカ、イギリスを相手に大東亜戦争に突入していった。
海軍は戦争に反対していたのに。」
早めに終わらせておかなければならなかった。
「戦争だけは絶対やっちゃいけない
あれほど残酷で悲惨なものはない」
もし核戦争でもはじまったら人類が滅亡するだろう。」
最後にもお言葉いただきました。
そう昔の楽しい思い出の一つ プールはないから高瀬川や犀川で泳いだこと。
そして懐かしい神社 生まれ育った荻原地区の秋祭りの船
今でも受け継がれているようです。

これは一度見てみたい!
しかし教育とはいえ軍隊時代の辛い事をどうやって耐えられたのだろう?
そんな問に、丸山さんは
「故郷や家族が心の支えだった」とのこと。
自分にも温かい応援の言葉もいただきました。
長い時間ありがとうございました!
お元気で。
愛と平和を歌う シンガーソングライター
清水まなぶ→ http://manaboom.net
回想プロジェクト
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