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2015年07月22日

木曽町

今回は木曽郡木曽町 
2005年に木曽福島町、日義村、開田村、山岳村が合併して誕生した
長野県の西 岐阜県とも隣接する 約12000名ほどが暮らしている町


春原金蔵さん 87歳がお話を聞かせてくださいました。
 
木曽町
終戦時は17歳
木曽福島町の高等小学校 青年学校を卒業して
役場の水道部で働き出していた。

男6人 女3人兄妹の5番目 
当時 家にいたのは姉1人 母 弟2人
父は病気で亡くなっていたので
自分が働くしかなかった。

兄達は3人兵隊に行っていた。
 
同じ年頃では木曽西校に行っていた連中で
志願兵として行った人はいた。
 

「死ぬ事までは考えなかったな〜
 兵隊に行きたいとみんな思っていた」

でも兄達が出征してしまっていたから
家の百姓をやらなければいけなかった。
 

木曽は軍事工場等 目立った施設がなかった事から
空襲の被害はなかったが、
水無神社の上 関山公園の下に
防空監視哨十三番福島があり そこへ勤務に行った。

松本警察署に直通の電話があって
24時間監視体制で飛来する飛行機の識別、数、行き先を監視し報告していた。

冬の夜は寒く 毛布をかぶりストーブにへばりついて勤務した。

ここに勤務していた人たちも順に
戦争に行かされると 若い人が代わりに入ってくる。
 
 

当時 戦時中の雰囲気は情報が管理されていて
「今の北朝鮮と同じようなものだ」と春原さんは言う。


1番上の兄がミッドウェイに参戦していたにも関わらず運良く帰国。
海軍の戦力がすでに無くなっている事を目の当たりにしていた。
しかしその情報は当時一つも国内に聞こえてこなかった。

2番目の兄はトラック島で 香取型巡洋艦とともに沈没 戦死22歳

3番目の兄は中国から引揚げる途中
カンプキョウ?という辺りで病死 21歳
奈良井の戦友が遺骨を届けてくれた。
 

母は何とも言わなかった。


金属回収令での供出もおこなわれ
役場の前には金属類の山になっていたことを覚えている。



敗戦の日
役場にいて 皆で集まって玉音放送を聞いた。
その頃は役場の水道部の仕事をしていたが、
自分は何故か監視哨に走って向かった。
 

終戦後 進駐軍が来て「監視哨員は連れていかれる」
という噂があったので
資料などは壕に投げ込み土を被せわからないようにして
建物は取り壊した。



戦後 45歳まで役場に勤務し
その後 設備工事会社を設立 
地元の様々な役職や地域貢献をされてきた。
 

そんな春原さんが今の若者に伝えたい事とは?
 
「自分を良く知る
 世の中を知ることが大事。
 就職にしても簡単に仕事を選んで
 簡単に辞めるんでなくて、
 経験を積んで長く一つのことを続けるとか、、」
 
 我慢や忍耐、身の丈を知るということになるかもしれないが
 しっかり見てから物事を判断してほしいと。

木曽町
今回は木曽町在住の方の戦争体験記を取材し編集している
小松さんにご案内いただきました。
ありがとうございました。

取材後 外まで見送って下さった春原さん
この辺りは戸をしっかり閉めておかないと
猿が入り込んでしまい大変なんだと。。

木曽町
ホントだ玄関のすぐそばまで猿が下りてきているんですね。
 
木曽町
この地は人間だけのものではない
自然の中で生かされていますw

この辺りのオススメスポットとして
少し山道を上った所のキビオ展望台も案内いただきました。
御嶽山、乗鞍山、奥穂高岳、前穂高岳が望めます。
 
木曽町

ありがとうございました
お元気で!!


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