2015年07月01日
北信州 栄村
長野県の最北部 新潟県との県境
日本有数の豪雪地帯
現在2000名ほどが暮らす栄村におじゃましました。
冬季 どのくらい雪が多いかというと
この村の森宮野原駅では
1945年2月12日に7m85㎝の豪雪を記録しています。

その昔は雪が多すぎて2階から出入りしていたようです。
雪かきも大変な生活の一部、、、
ただ家の周りは雪を溶かすように用水や池などあり工夫されていました。

そんな村で小学校2年の時に終戦を迎えた広瀬さんと
終戦時17歳 高橋 元村長にお話をうかがいました。
実は戦前戦中 村内では森林開発や発電所建設工事が多くあり
経済的には活気があったとのこと。
(飯山の西大滝ダムは最大出力16万キロワットと
当時は東洋一の発電をしていたようです。)
今でも山手線を動かす電気はここからいっているとか??
ということで当時は全国から人が集まり
子どももいっぱいで小学校の教室も足りないほど、
増築増築、1クラス60名なんてことも。
しかし農家は食べるものの苦労はあったと。
農地解放前は供出の他に小作米も納めていたので
大変だったと 広瀬さん。

まだ当時幼いながらに いろんなことを覚えていて語って下さいました。
父へ召集令状 赤紙がきた時
母は御盆をもって受取りに。
役場の人の「おめでとうございます」
という言葉に違和感を感じていた。
家族、親戚が出征するときは皆で万歳 !!
家で祝った。
送り出す会でのエピソードで覚えているのは
校長先生と一緒にやってきた義勇兵
鼻水を すすっていている少年に
「ともいち 鼻拭け」
と校長先生が手ぬぐいを渡されていた。
まだ鼻水をたらすくらいの14、5歳の少年が兵隊に? と振り返る。
しかし自身も小学校で予科練の人を見たとき
制服はカッコ良く憧れた。
また、長生きした元気な近所の ばあちゃんの思い出。
昭和19年冬 雪のある中
当時はまだ若かったその おばあさんが 黒い服を着て
白い布につつまれた木箱を抱いて
村葬の会場に歩いていく姿。
今でも鮮明に覚えている。
実は 戦争でご主人を亡くしていたのだ。
「でもこの辺りは山の中だから
あまり戦争の実感がなかったが
沖縄辺りはひどかったね~」
昭和20年 終戦の日は暑い日だった。
ラジオを聞き 父親は泣き出した事も覚えている
「戦争に負けた、、、」 と。
高橋さんの印象に残っていることは?

15、16、17歳の頃
夏5月〜8月は勤労奉仕で北海道まで。
そこで志願して兵隊に行ったものも数名いた。
自分たちの一つ上の年の人たちまでは
志願兵が多かったと。
そして荒れ地を開墾するのは学生だった。
今の飯山 菜の花公園のところもススキの原だった。
そこを下高井農林と飯山中学で荒れ地をおこした。
そんな中、常にゲートルを巻いていなければいけないこと、
学校では必ず保安殿に最敬礼しなければいけないこと、
男は人前で女としゃべるなんてダメだ! なんて上級生に怒鳴られたこと、
なんといっても戦時中は英語もダメ
配属将校がいて、教練という科目があり
軍事教育をたたきこまれた。
そこで思い出すことは銃の手入れをしていたら
出るはずじゃない実弾が教室の中で発砲してしまった。。。
戦中は年60円の授業料を納めていたようだが
授業らしい授業はなかったと。
少し遡り 支那事変で隣の家のお兄さんが戦死
それは大騒ぎになったので印象に残っている。
この村でも170人位は戦死していると。
実は戦後50年の時に村で多くの体験談を集め冊子になっていた。

「ここに記録されている人も
元気なのはもう4、5人だよ、、、
でも当時聞いておいて こうして残せて良かったよ〜」
と高橋さん。
「今の若者にはもっと国のこと
憲法だってなんだて勉強してほしい」とも。
戦後 上京したという高橋さん。
自分たち学生の頃は貧しかったから
アルバイトをしながらも一生懸命学んだ。
「にこよん なんて言って
日当240円の時代」
今 日本武道館のある所は学生会館?
学生にアルバイトを斡旋する場所だった。
しかし父が亡くなり 長男として家を守らなくてはいけない
という責任感から帰郷。
その後 村長まで務められた。
そんな栄村 生まれ育ちのお二人に
一番のオススメのスポットを聞いてみると
山の上にある 「野々見池」 とのこと。
これも田に水を引くために
先人達の手で苦労して作られたものだと。
一度足を運んでみたいと思います。
お話ありがとうございました!!
お元気で。

愛と平和を歌う 清水まなぶ
ホームページ→ http://manaboom.net
日本有数の豪雪地帯
現在2000名ほどが暮らす栄村におじゃましました。
冬季 どのくらい雪が多いかというと
この村の森宮野原駅では
1945年2月12日に7m85㎝の豪雪を記録しています。

その昔は雪が多すぎて2階から出入りしていたようです。
雪かきも大変な生活の一部、、、
ただ家の周りは雪を溶かすように用水や池などあり工夫されていました。

そんな村で小学校2年の時に終戦を迎えた広瀬さんと
終戦時17歳 高橋 元村長にお話をうかがいました。
実は戦前戦中 村内では森林開発や発電所建設工事が多くあり
経済的には活気があったとのこと。
(飯山の西大滝ダムは最大出力16万キロワットと
当時は東洋一の発電をしていたようです。)
今でも山手線を動かす電気はここからいっているとか??
ということで当時は全国から人が集まり
子どももいっぱいで小学校の教室も足りないほど、
増築増築、1クラス60名なんてことも。
しかし農家は食べるものの苦労はあったと。
農地解放前は供出の他に小作米も納めていたので
大変だったと 広瀬さん。

まだ当時幼いながらに いろんなことを覚えていて語って下さいました。
父へ召集令状 赤紙がきた時
母は御盆をもって受取りに。
役場の人の「おめでとうございます」
という言葉に違和感を感じていた。
家族、親戚が出征するときは皆で万歳 !!
家で祝った。
送り出す会でのエピソードで覚えているのは
校長先生と一緒にやってきた義勇兵
鼻水を すすっていている少年に
「ともいち 鼻拭け」
と校長先生が手ぬぐいを渡されていた。
まだ鼻水をたらすくらいの14、5歳の少年が兵隊に? と振り返る。
しかし自身も小学校で予科練の人を見たとき
制服はカッコ良く憧れた。
また、長生きした元気な近所の ばあちゃんの思い出。
昭和19年冬 雪のある中
当時はまだ若かったその おばあさんが 黒い服を着て
白い布につつまれた木箱を抱いて
村葬の会場に歩いていく姿。
今でも鮮明に覚えている。
実は 戦争でご主人を亡くしていたのだ。
「でもこの辺りは山の中だから
あまり戦争の実感がなかったが
沖縄辺りはひどかったね~」
昭和20年 終戦の日は暑い日だった。
ラジオを聞き 父親は泣き出した事も覚えている
「戦争に負けた、、、」 と。
高橋さんの印象に残っていることは?

15、16、17歳の頃
夏5月〜8月は勤労奉仕で北海道まで。
そこで志願して兵隊に行ったものも数名いた。
自分たちの一つ上の年の人たちまでは
志願兵が多かったと。
そして荒れ地を開墾するのは学生だった。
今の飯山 菜の花公園のところもススキの原だった。
そこを下高井農林と飯山中学で荒れ地をおこした。
そんな中、常にゲートルを巻いていなければいけないこと、
学校では必ず保安殿に最敬礼しなければいけないこと、
男は人前で女としゃべるなんてダメだ! なんて上級生に怒鳴られたこと、
なんといっても戦時中は英語もダメ
配属将校がいて、教練という科目があり
軍事教育をたたきこまれた。
そこで思い出すことは銃の手入れをしていたら
出るはずじゃない実弾が教室の中で発砲してしまった。。。
戦中は年60円の授業料を納めていたようだが
授業らしい授業はなかったと。
少し遡り 支那事変で隣の家のお兄さんが戦死
それは大騒ぎになったので印象に残っている。
この村でも170人位は戦死していると。
実は戦後50年の時に村で多くの体験談を集め冊子になっていた。

「ここに記録されている人も
元気なのはもう4、5人だよ、、、
でも当時聞いておいて こうして残せて良かったよ〜」
と高橋さん。
「今の若者にはもっと国のこと
憲法だってなんだて勉強してほしい」とも。
戦後 上京したという高橋さん。
自分たち学生の頃は貧しかったから
アルバイトをしながらも一生懸命学んだ。
「にこよん なんて言って
日当240円の時代」
今 日本武道館のある所は学生会館?
学生にアルバイトを斡旋する場所だった。
しかし父が亡くなり 長男として家を守らなくてはいけない
という責任感から帰郷。
その後 村長まで務められた。
そんな栄村 生まれ育ちのお二人に
一番のオススメのスポットを聞いてみると
山の上にある 「野々見池」 とのこと。
これも田に水を引くために
先人達の手で苦労して作られたものだと。
一度足を運んでみたいと思います。
お話ありがとうございました!!
お元気で。

愛と平和を歌う 清水まなぶ
ホームページ→ http://manaboom.net