2015年06月27日
雪国 小谷村
長野県北西部 新潟県との県境
およそ3000人が暮らす小谷村
お話を伺ったのは 山岸さん87歳
実は山岸さん自身 田舎暮らしの物語を本にし出版していて
読売女性ヒューマンドキュメンタリー大賞
カネボウスペシャルを受賞されドラマ化もされているという お方。

東京からちゃんめろの咲く山里に移り住み
最初はとまどいながらも
自然や地元の人々や動物とのふれあいの中で、
しだいに人間らしい生き方とは何かを
見出していく姿を描いている物語
「ちゃんめろの山里で」
ところで「チャンメロ」?って ご存知ですか?
ちゃん? めろ?、、、
「ふきのとう」のことを小谷近辺ではそう呼ぶそうです^^
北信では「ふきったま」と言ったりもしますよね。
その土地土地の呼び名 それもまた良き伝統^^
そんな山岸さんの体験談は中国から。
出身地 福岡県から昭和15年12歳のとき母と共に
姉がいた中国北京に渡る。
10人兄妹の一番下で 高等女学校に入った年だった。
それから太平洋戦争が始まっても平穏なくらしが数年続いたが
昭和19年頃になると北京でも戦争の影響が出てきたので
安全のために満州牡丹江へ移った。
しかし昭和20年敗戦 逃避行が始る。
逃げるのが精一杯。
収容所でも生活するには何かしなければいけないから
モノを売ったり仕事を探して歩いた。
「麗人求む」という広告に
わけもわからないまま
3つ上の姉と友人と訪ねていった。
そこは芸者の置屋のようなところ
食べる為にはと わりきる。
お酒を出したりの接待
お客は日本人、中国人などさまざま。
ちょうどそこに来た日本の有力者のお客さんが
お金を出して姉と自分を引き取ってくれた。
ただ友とは別れることに。
「ごめんね」
「いいのよ」という何気ない会話
それが最後、その後どうなったか わからない。
「自分だけ助かり
友を助けてあげられなかったことが
今でも心残り、、、」
しかし食べ物もない過酷な状況下では
自分ひとり生きることも精一杯だったのでしょう。
11月頃の寒い夜
ソ連兵が物取り強姦目的で入ってきた。
2階の窓から抜け出し姉と天井裏に隠れたことも。
「怖かった〜」
当時17歳 髪も丸坊主にして
女性であることを隠した。
「開拓民はみな苦労したよ」

しかしその後 姉は栄養失調で亡くなった。
その時 口から吐き出されたものが、、
大きな「回虫」
その時の母の言葉 と光景が忘れられない
「お腹の中に 何も食べるものが無くなったとね」
当時火葬場はいっぱいで順番待ち
ただ遺骨だけは持って来れた。
総領事館で働いていた時には
いろんな写真も目にしていた。
いったい真実はどこに、、?
終戦から一年経って母と二人 舞鶴港へ引き揚げてきた。
その経験から今の人に伝えておきたいことは
「国にだまされるな
結局 国は守ってくれないぞ」
ということ。
福岡から中国、東京そして長野と移り
今は山里で自給自足しながら暮らしている。
実はご主人も伊那出身の映画界の方
「あぁ野麦峠」や満蒙開拓の「蒼い記憶」などの
映画にも企画から携わっていた。

これまたビックリ!!
また「小谷若者の村」という今でいう農村体験を
30年も前からやっていたとのこと。
素敵なお二人でした^^
自分たちも自然界のリズムを感じながらも
しっかりと先見の明を持っていきたいですね。
貴重なお話ありがとうございました!
お元気で。

愛と平和を歌う シンガーソングライター
清水まなぶ→ http://manaboom.net
回想プロジェクト→ https://www.facebook.com/kaisou1945
およそ3000人が暮らす小谷村
お話を伺ったのは 山岸さん87歳
実は山岸さん自身 田舎暮らしの物語を本にし出版していて
読売女性ヒューマンドキュメンタリー大賞
カネボウスペシャルを受賞されドラマ化もされているという お方。

東京からちゃんめろの咲く山里に移り住み
最初はとまどいながらも
自然や地元の人々や動物とのふれあいの中で、
しだいに人間らしい生き方とは何かを
見出していく姿を描いている物語
「ちゃんめろの山里で」
ところで「チャンメロ」?って ご存知ですか?
ちゃん? めろ?、、、
「ふきのとう」のことを小谷近辺ではそう呼ぶそうです^^
北信では「ふきったま」と言ったりもしますよね。
その土地土地の呼び名 それもまた良き伝統^^
そんな山岸さんの体験談は中国から。
出身地 福岡県から昭和15年12歳のとき母と共に
姉がいた中国北京に渡る。
10人兄妹の一番下で 高等女学校に入った年だった。
それから太平洋戦争が始まっても平穏なくらしが数年続いたが
昭和19年頃になると北京でも戦争の影響が出てきたので
安全のために満州牡丹江へ移った。
しかし昭和20年敗戦 逃避行が始る。
逃げるのが精一杯。
収容所でも生活するには何かしなければいけないから
モノを売ったり仕事を探して歩いた。
「麗人求む」という広告に
わけもわからないまま
3つ上の姉と友人と訪ねていった。
そこは芸者の置屋のようなところ
食べる為にはと わりきる。
お酒を出したりの接待
お客は日本人、中国人などさまざま。
ちょうどそこに来た日本の有力者のお客さんが
お金を出して姉と自分を引き取ってくれた。
ただ友とは別れることに。
「ごめんね」
「いいのよ」という何気ない会話
それが最後、その後どうなったか わからない。
「自分だけ助かり
友を助けてあげられなかったことが
今でも心残り、、、」
しかし食べ物もない過酷な状況下では
自分ひとり生きることも精一杯だったのでしょう。
11月頃の寒い夜
ソ連兵が物取り強姦目的で入ってきた。
2階の窓から抜け出し姉と天井裏に隠れたことも。
「怖かった〜」
当時17歳 髪も丸坊主にして
女性であることを隠した。
「開拓民はみな苦労したよ」

しかしその後 姉は栄養失調で亡くなった。
その時 口から吐き出されたものが、、
大きな「回虫」
その時の母の言葉 と光景が忘れられない
「お腹の中に 何も食べるものが無くなったとね」
当時火葬場はいっぱいで順番待ち
ただ遺骨だけは持って来れた。
総領事館で働いていた時には
いろんな写真も目にしていた。
いったい真実はどこに、、?
終戦から一年経って母と二人 舞鶴港へ引き揚げてきた。
その経験から今の人に伝えておきたいことは
「国にだまされるな
結局 国は守ってくれないぞ」
ということ。
福岡から中国、東京そして長野と移り
今は山里で自給自足しながら暮らしている。
実はご主人も伊那出身の映画界の方
「あぁ野麦峠」や満蒙開拓の「蒼い記憶」などの
映画にも企画から携わっていた。

これまたビックリ!!
また「小谷若者の村」という今でいう農村体験を
30年も前からやっていたとのこと。
素敵なお二人でした^^
自分たちも自然界のリズムを感じながらも
しっかりと先見の明を持っていきたいですね。
貴重なお話ありがとうございました!
お元気で。

愛と平和を歌う シンガーソングライター
清水まなぶ→ http://manaboom.net
回想プロジェクト→ https://www.facebook.com/kaisou1945