2015年06月06日
信州中野
回想プロジェクト 信州 全77市町村 聞き取りの旅
今回は先週 新聞にも掲載いただいた 中野市の春原さん88歳

父親の仕事の関係で幼い頃に中野市を離れ東京で暮らしていた。
戦時中は青年学校 研究科に行ったが 勉強どころか日立精機株式会社で徴用。
そして昭和20年3月10日
東京大空襲 空襲警報を聞いて 夢中で逃げた
低空で飛んでくるB29
防空頭巾をかぶって逃げるのが精一杯。
母ともはぐれた。
「おっかなかったよ〜」
ちょうど下町 東駒形に住んでいた春原さん
火の海を逃げ 小学校のプールに入って助かった。
隅田公園にみな逃げてゆくが
隅田川に架かる言問橋が燃え
川にはたくさんの人が飛び込んでいた。
一晩で10万人が命を落としたといわれる あの大空襲だ。
「もちろん家も燃えちゃった
近所の人も亡くなった、、
家も何もないから みんなどうなったもかわからない。
3月だったから
寒いし腹は減るし、、、」
本当に怖かったと当時を振り返ってくれた。
母ともその後再会
あの焼け野原となった空襲の中心地で よくご無事でした。
「どうやって助かったかもわからない」
「オレはちょっくれぇ だからな〜」(笑)
ちょうど翌日は徴兵検査の日 それでもと役所にいくも
それどころではない。
まわりは死体がゴロゴロ
異臭が漂う中、自分自身がわからなくなっている人がたくさん。
死体を見ても怖くもなんともない
全てが麻痺している状態。
それを機に故郷 中野市へ戻ってきた。
帰郷後も 6月には兵隊に。
今の長野市 桜ヶ岡中学校の辺りが兵舎だった。
そこの 東部11部隊に入隊 訓練を重ねた。
しかし8月の長野空襲
「兵隊もおっかながって みんな桑畑に逃げていた。
新型爆弾が落ちたらしいとの噂も入ってきてはいたな〜。」
8月15日 ラジオを前に皆で玉音放送を聞く
何言っているのか? わからなかった。
上官から戦争が終わったと聞き「ホッとした」
訓練も厳しかったから
それをやらなくてよくなったと、、、
まだ18、19歳 単純なもんだった。
当時は軍事教育もあり国のためにと煽られて
何の疑いももたなかったけど 戦争の怖さは実感した。
「勝っても負けても悲惨な目に遭うもんね
だから戦争はしちゃいけない。」
自分たちもアジアの欧米列強植民地を その支配から独立させるという
大東亜共栄圏を掲げていたが 今となれば独立させるというより
日本が変わって支配したかっただけかも、、、と。
若者へのメッセージもうかがいました。
「今は自己中心じゃない?
自分のしたいことだけの利益優先
自己主張ばかりしないで
他人の事も考えるって大事じゃないかな。
相手の事を認め うまく付き合う
でもこれ若者が悪いんでなく 親の教育 しつけが甘いと思う」と。
定年後は地域の交流や遊び場の提案として
公民館での文化活動をはじめ
謡曲や写真、盆栽、カラオケ、習字、琴など
いろんなことを音頭をとって立ち上げたそうです。
「これはやっておいて良かった〜
この辺は みんな仕事だけしかなかったから」
「でも自然豊かでいいところだよ〜 すべていい(笑)」と。

長野県北部44000人が暮らす街 中野市
全国一の生産量の えのき や 美味しいぶどう でも有名で
今はちょうど「中野ばらまつり」が開催中。
「さぁ漬け物もやって」
たくさんのお茶菓子など ごちそうさまでした。
長い時間 力強い言葉で語って下さいましたが
昨年喉の病気をし 声もかすれてしまっていたようです。
お大事に。
そして これからもお元気で。
ありがとうございました!

愛と平和を歌う シンガーソングライター
清水まなぶ http://manaboom.net
回想プロジェクト→ https://www.facebook.com/kaisou1945
今回は先週 新聞にも掲載いただいた 中野市の春原さん88歳

父親の仕事の関係で幼い頃に中野市を離れ東京で暮らしていた。
戦時中は青年学校 研究科に行ったが 勉強どころか日立精機株式会社で徴用。
そして昭和20年3月10日
東京大空襲 空襲警報を聞いて 夢中で逃げた
低空で飛んでくるB29
防空頭巾をかぶって逃げるのが精一杯。
母ともはぐれた。
「おっかなかったよ〜」
ちょうど下町 東駒形に住んでいた春原さん
火の海を逃げ 小学校のプールに入って助かった。
隅田公園にみな逃げてゆくが
隅田川に架かる言問橋が燃え
川にはたくさんの人が飛び込んでいた。
一晩で10万人が命を落としたといわれる あの大空襲だ。
「もちろん家も燃えちゃった
近所の人も亡くなった、、
家も何もないから みんなどうなったもかわからない。
3月だったから
寒いし腹は減るし、、、」
本当に怖かったと当時を振り返ってくれた。
母ともその後再会
あの焼け野原となった空襲の中心地で よくご無事でした。
「どうやって助かったかもわからない」
「オレはちょっくれぇ だからな〜」(笑)
ちょうど翌日は徴兵検査の日 それでもと役所にいくも
それどころではない。
まわりは死体がゴロゴロ
異臭が漂う中、自分自身がわからなくなっている人がたくさん。
死体を見ても怖くもなんともない
全てが麻痺している状態。
それを機に故郷 中野市へ戻ってきた。
帰郷後も 6月には兵隊に。
今の長野市 桜ヶ岡中学校の辺りが兵舎だった。
そこの 東部11部隊に入隊 訓練を重ねた。
しかし8月の長野空襲
「兵隊もおっかながって みんな桑畑に逃げていた。
新型爆弾が落ちたらしいとの噂も入ってきてはいたな〜。」
8月15日 ラジオを前に皆で玉音放送を聞く
何言っているのか? わからなかった。
上官から戦争が終わったと聞き「ホッとした」
訓練も厳しかったから
それをやらなくてよくなったと、、、
まだ18、19歳 単純なもんだった。
当時は軍事教育もあり国のためにと煽られて
何の疑いももたなかったけど 戦争の怖さは実感した。
「勝っても負けても悲惨な目に遭うもんね
だから戦争はしちゃいけない。」
自分たちもアジアの欧米列強植民地を その支配から独立させるという
大東亜共栄圏を掲げていたが 今となれば独立させるというより
日本が変わって支配したかっただけかも、、、と。
若者へのメッセージもうかがいました。
「今は自己中心じゃない?
自分のしたいことだけの利益優先
自己主張ばかりしないで
他人の事も考えるって大事じゃないかな。
相手の事を認め うまく付き合う
でもこれ若者が悪いんでなく 親の教育 しつけが甘いと思う」と。
定年後は地域の交流や遊び場の提案として
公民館での文化活動をはじめ
謡曲や写真、盆栽、カラオケ、習字、琴など
いろんなことを音頭をとって立ち上げたそうです。
「これはやっておいて良かった〜
この辺は みんな仕事だけしかなかったから」
「でも自然豊かでいいところだよ〜 すべていい(笑)」と。

長野県北部44000人が暮らす街 中野市
全国一の生産量の えのき や 美味しいぶどう でも有名で
今はちょうど「中野ばらまつり」が開催中。
「さぁ漬け物もやって」
たくさんのお茶菓子など ごちそうさまでした。
長い時間 力強い言葉で語って下さいましたが
昨年喉の病気をし 声もかすれてしまっていたようです。
お大事に。
そして これからもお元気で。
ありがとうございました!

愛と平和を歌う シンガーソングライター
清水まなぶ http://manaboom.net
回想プロジェクト→ https://www.facebook.com/kaisou1945