2015年05月26日
野沢温泉村
下高井郡野沢温泉村
温泉にスキー、正月に行われる火祭りも有名な
人口3600人ほどの村
ここで野沢温泉小唄など
元気な歌声も披露してくださったのは
河野さん 93歳

温泉効果?w 肌つやも良く
車も運転なさるほど、とてもお元気。
そんな河野さんは生まれも育ちも野沢温泉村
4男だったので学校を出てからは
技術を身につけようと大工さんの弟子に。
昭和14年頃も木造4階建て5階建ての建物がここにもあった。
その技術を学んだ。
しかし太平洋戦争がはじまり
20歳になると同時に徴兵検査を受け合格
戦争が始まってすぐ 1月10日に初年兵として高田へ
独立歩兵第76大隊第2中隊として中国へ渡った。
入隊と同時に遺書を書かされ
爪を切って 髪の毛も入れて提出
それは戦後役場に届いていた。
「戦死したら遺骨代わりだったんだろう」
中国ではおもに治安維持。
住民に手を出したこともない。
侵略という言葉を使われればそれまでだけど、
日本の商社もあったのでそれを守るという役目もあった。
自分たちは連れて行かれるままで喧嘩しに行ったわけではない。

当時 中国の軍隊は 蒋介石 側と毛沢東 側の二つあり
これがアチコチでやりあっていた。
お互いが日本軍のところに勧誘にも来たほど。
武器も十分あるから
こちらには仕掛けてこなかったし
中国側やアメリカと大きくやり合ったことはない。
場所や情勢により 戦争といっても違うものです。
ただ小競り合い、非賊、泥棒のような連中との争いで何人も命を落としている。
河野さんも身体の中に 爆弾の破片が入ったまま。
「えっ?」
飛行機に乗るときのチェックでは必ず鳴るそうです。
楽な場所だったとはいえ命がけですよね。
終戦をむかえても
捕虜という実感はなかったと。
当時は中国から南の戦闘地に行きたいとも思い志願もした。
しかし上官からなだめられ それは叶わず。
今考えればそれも「運」
自分たちより数ヶ月遅く入隊した人たちはアッツ島で玉砕
自分もその時 南へ行っていれば帰ってこれなかっただろう。
自分たちは軍隊でなく運隊 だったと。

そして昭和21年 2月に佐世保港に帰ってきた。
24歳で故郷へ。
帰りの汽車で覚えている事は
駅員さんが真顔で
「窓から乗ってください」
と言った言葉。
それが当たり前?
窓から出入りするなんて
行儀も悪いし日本も急に変わり
混乱しているな〜と思ったと。
あと長野県に入ると白壁の土蔵を黒く塗ってあった。
そんな事したって見えるのにと(笑)
これも県民性かな〜 と感じた。
また県民性といえばよく言われる理屈っぽいところが
ある商売にいかされたことも教えてくださいました。
知らなかった〜
今も昔も流行や珍しいモノにすぐ飛びつくのは長野県民性ですかね〜w
帰ってきてからは、自分で勉強して
建築士の資格を取って 今を築き上げていった。
「民主主義って何か?
そこから学び直しでした^^」
しかし努力が一番だということは経験から学んだと。
誰に何をいわれるわけでもなく
誰のためにするわけではなく
努力は自分を作り上げてゆくものだもんな〜
「人生いろいろ
90年間何して来たか?と思うけど
いい事もあれば悪い事もある
でも努力はしてきたと思う。」
そう語ってくれた後 今の人たちには
「たくさん学び自分の持っている知識や知恵を出し切ってほしい」
というメッセージもいただきました。
ありがとうございました。
夏祭りでの歌 披露楽しみにしています^^

芸術家 岡本太郎さんも愛した野沢温泉村
役場前にはオブジェも。
今度はのんびりと温泉に伺いたいと思います〜
愛と平和を歌う シンガーソングライター
清水まなぶ http://manaboom.net
回想プロジェクトFB→ https://www.facebook.com/kaisou1945
温泉にスキー、正月に行われる火祭りも有名な
人口3600人ほどの村
ここで野沢温泉小唄など
元気な歌声も披露してくださったのは
河野さん 93歳

温泉効果?w 肌つやも良く
車も運転なさるほど、とてもお元気。
そんな河野さんは生まれも育ちも野沢温泉村
4男だったので学校を出てからは
技術を身につけようと大工さんの弟子に。
昭和14年頃も木造4階建て5階建ての建物がここにもあった。
その技術を学んだ。
しかし太平洋戦争がはじまり
20歳になると同時に徴兵検査を受け合格
戦争が始まってすぐ 1月10日に初年兵として高田へ
独立歩兵第76大隊第2中隊として中国へ渡った。
入隊と同時に遺書を書かされ
爪を切って 髪の毛も入れて提出
それは戦後役場に届いていた。
「戦死したら遺骨代わりだったんだろう」
中国ではおもに治安維持。
住民に手を出したこともない。
侵略という言葉を使われればそれまでだけど、
日本の商社もあったのでそれを守るという役目もあった。
自分たちは連れて行かれるままで喧嘩しに行ったわけではない。

当時 中国の軍隊は 蒋介石 側と毛沢東 側の二つあり
これがアチコチでやりあっていた。
お互いが日本軍のところに勧誘にも来たほど。
武器も十分あるから
こちらには仕掛けてこなかったし
中国側やアメリカと大きくやり合ったことはない。
場所や情勢により 戦争といっても違うものです。
ただ小競り合い、非賊、泥棒のような連中との争いで何人も命を落としている。
河野さんも身体の中に 爆弾の破片が入ったまま。
「えっ?」
飛行機に乗るときのチェックでは必ず鳴るそうです。
楽な場所だったとはいえ命がけですよね。
終戦をむかえても
捕虜という実感はなかったと。
当時は中国から南の戦闘地に行きたいとも思い志願もした。
しかし上官からなだめられ それは叶わず。
今考えればそれも「運」
自分たちより数ヶ月遅く入隊した人たちはアッツ島で玉砕
自分もその時 南へ行っていれば帰ってこれなかっただろう。
自分たちは軍隊でなく運隊 だったと。

そして昭和21年 2月に佐世保港に帰ってきた。
24歳で故郷へ。
帰りの汽車で覚えている事は
駅員さんが真顔で
「窓から乗ってください」
と言った言葉。
それが当たり前?
窓から出入りするなんて
行儀も悪いし日本も急に変わり
混乱しているな〜と思ったと。
あと長野県に入ると白壁の土蔵を黒く塗ってあった。
そんな事したって見えるのにと(笑)
これも県民性かな〜 と感じた。
また県民性といえばよく言われる理屈っぽいところが
ある商売にいかされたことも教えてくださいました。
知らなかった〜
今も昔も流行や珍しいモノにすぐ飛びつくのは長野県民性ですかね〜w
帰ってきてからは、自分で勉強して
建築士の資格を取って 今を築き上げていった。
「民主主義って何か?
そこから学び直しでした^^」
しかし努力が一番だということは経験から学んだと。
誰に何をいわれるわけでもなく
誰のためにするわけではなく
努力は自分を作り上げてゆくものだもんな〜
「人生いろいろ
90年間何して来たか?と思うけど
いい事もあれば悪い事もある
でも努力はしてきたと思う。」
そう語ってくれた後 今の人たちには
「たくさん学び自分の持っている知識や知恵を出し切ってほしい」
というメッセージもいただきました。
ありがとうございました。
夏祭りでの歌 披露楽しみにしています^^

芸術家 岡本太郎さんも愛した野沢温泉村
役場前にはオブジェも。
今度はのんびりと温泉に伺いたいと思います〜
愛と平和を歌う シンガーソングライター
清水まなぶ http://manaboom.net
回想プロジェクトFB→ https://www.facebook.com/kaisou1945