2015年05月25日
飯綱町
牟礼村と三水村が合併して2005年に誕生した
約11000人が暮らす長野県北部 飯綱町
貨物列車で一人 懐かしの牟礼駅に到着
歩いて約 一里の道を懐かしみながら歩く
昔通いなれた近道は荒れてはいたけど
清水の流れの傍らで一休み。
峠を越えて畑の中の近道を下り実家へ向かう
8年ぶりの故郷
変わらない故郷が あたたかく迎えてくれました。
そう語ってくれたのは飯綱町に暮らす戸田さん92歳

当時は満鉄に入りたかった。
そんな満州に憧れ昭和14年 17歳 満州電電職錬に入り 学び働く。
しかし、みんな招集されて勉強どころではなかったと。
そんな満州では なんとあの国民的名優
「森繁久彌」さんともご一緒だったようです。
森繁さんはアナウンサーとして
満州電信電話 新京中央放送局で活躍していたんですね。
アナウンサーになったきっかけが
「徴兵制度を避けるため。
当時としては海外へ赴任出来る数少ない仕事であったから」
と自ら著書に記しているようですが、
「放送劇団なんかもしていた。
なんでも出来る人でしたよ。
少しロシア語も出来たので
ソ連兵をうまく相手にしていた」と
戸田さんは当時の事を振り返ってくれました。
終戦を迎えたのは疎開のための列車移動の途中
本渓湖駅のホームから聞こえた君が代。
このときは何かわかりませんでしたが
夜中に到着した南ふん報話局の後輩が
停戦協定が出来た事を教えてくれた。
それは私たち日本人に対しての思いやりなのか、
敗戦の事に触れずあたたかく接してくれたと。
敗戦のショック お先真っ暗ということと
同時にほっとしたということ。
これからどうすれば良いか?という問いには
的確な答えをすることは出来ませんでした。
一日一日を大切に生きるより仕方がないのでは?と
自分にむかって答えるより他の言葉はなかったと。
終戦後は各地 暴動も起きている中
学校の教室や元居た宿舎に身を寄せるも
ソ連兵が入ってきて
金目のものは奪われ 女性は襲われる。
そんな恐怖体験がいくつも。
「ダワイ」と声をかけられ
強引に兵舎へ連れ込まれ
雑用にこきつかわれることも。
またソ連軍憲兵隊より日本人で軍籍にあった者は届けるよう通達。
正直に出頭したものの若い人は殆どシベリアへ連行。
拒んで逃亡を企てた者は、見せしめにみんなの前で銃殺された。
自分たちもその時近くに住んでいた仲間達と話し合い
おそらく軍事関係の書類は処分されていると思うので
自分たちが所持していた軍に関係のある
軍事手帳、奉公袋等全部焼却し ほとぼりのさめるまで
しばらくじっとしていたと。
今考えれば まじめに届け出なくて
ズルしたこともよかったともw

昭和21年8月
新京 滑走路の拡張工事を手伝ったのを最後に
10月 無事故郷に帰る。
一番印象に残っているのは?
誰が書いたのか、
満州にあった貨車に白墨で書いてあった言葉
「踏まれても なお立ちあがる 麦の草」
負けて惨めだったとき この言葉が響いた。
「今は 平和ボケ しちゃっているね〜」とも。
生きていくための知恵、立ち上がる強さ
いろんな事を学びます。

ありがとうございました。
お元気で。
愛と平和を歌う 清水まなぶ
清水まなぶ→ http://manaboom.net
約11000人が暮らす長野県北部 飯綱町
貨物列車で一人 懐かしの牟礼駅に到着
歩いて約 一里の道を懐かしみながら歩く
昔通いなれた近道は荒れてはいたけど
清水の流れの傍らで一休み。
峠を越えて畑の中の近道を下り実家へ向かう
8年ぶりの故郷
変わらない故郷が あたたかく迎えてくれました。
そう語ってくれたのは飯綱町に暮らす戸田さん92歳

当時は満鉄に入りたかった。
そんな満州に憧れ昭和14年 17歳 満州電電職錬に入り 学び働く。
しかし、みんな招集されて勉強どころではなかったと。
そんな満州では なんとあの国民的名優
「森繁久彌」さんともご一緒だったようです。
森繁さんはアナウンサーとして
満州電信電話 新京中央放送局で活躍していたんですね。
アナウンサーになったきっかけが
「徴兵制度を避けるため。
当時としては海外へ赴任出来る数少ない仕事であったから」
と自ら著書に記しているようですが、
「放送劇団なんかもしていた。
なんでも出来る人でしたよ。
少しロシア語も出来たので
ソ連兵をうまく相手にしていた」と
戸田さんは当時の事を振り返ってくれました。
終戦を迎えたのは疎開のための列車移動の途中
本渓湖駅のホームから聞こえた君が代。
このときは何かわかりませんでしたが
夜中に到着した南ふん報話局の後輩が
停戦協定が出来た事を教えてくれた。
それは私たち日本人に対しての思いやりなのか、
敗戦の事に触れずあたたかく接してくれたと。
敗戦のショック お先真っ暗ということと
同時にほっとしたということ。
これからどうすれば良いか?という問いには
的確な答えをすることは出来ませんでした。
一日一日を大切に生きるより仕方がないのでは?と
自分にむかって答えるより他の言葉はなかったと。
終戦後は各地 暴動も起きている中
学校の教室や元居た宿舎に身を寄せるも
ソ連兵が入ってきて
金目のものは奪われ 女性は襲われる。
そんな恐怖体験がいくつも。
「ダワイ」と声をかけられ
強引に兵舎へ連れ込まれ
雑用にこきつかわれることも。
またソ連軍憲兵隊より日本人で軍籍にあった者は届けるよう通達。
正直に出頭したものの若い人は殆どシベリアへ連行。
拒んで逃亡を企てた者は、見せしめにみんなの前で銃殺された。
自分たちもその時近くに住んでいた仲間達と話し合い
おそらく軍事関係の書類は処分されていると思うので
自分たちが所持していた軍に関係のある
軍事手帳、奉公袋等全部焼却し ほとぼりのさめるまで
しばらくじっとしていたと。
今考えれば まじめに届け出なくて
ズルしたこともよかったともw

昭和21年8月
新京 滑走路の拡張工事を手伝ったのを最後に
10月 無事故郷に帰る。
一番印象に残っているのは?
誰が書いたのか、
満州にあった貨車に白墨で書いてあった言葉
「踏まれても なお立ちあがる 麦の草」
負けて惨めだったとき この言葉が響いた。
「今は 平和ボケ しちゃっているね〜」とも。
生きていくための知恵、立ち上がる強さ
いろんな事を学びます。

ありがとうございました。
お元気で。
愛と平和を歌う 清水まなぶ
清水まなぶ→ http://manaboom.net