2015年10月15日
北相木村
今回おじゃましたのは、
長野県の東端 南佐久郡の一つ 「北相木村」
峠を越えてお隣は群馬県上野村。
そう上野村といえば1985年の日航ジャンボ機墜落事故のあった
山のある村で救助に当たったのは上野村消防団でした。
そんな北相木村は およそ800名が暮らす山村
1970年代は倍の人口だったようですが
今では小学生も全校で40名程度
山に囲まれたのどかな村です。

そこでお話を聞かせてくれたのが、
石曽根さん82歳 父は関東軍だった。
もともとはお店をやっていたが
景気も悪くなり店をたたんで関東軍へ。
昭和15年 7歳のとき母と二人で父のいる満州 奉天へ。
その時は祖父におんぶされて
北相木の坂道を下り橋を渡ったっところまで
見送ってくれたことを覚えている。
「この辺りは昭和24年ころまでバスもなく
通学も隣の村に行くのも全部歩きでしたよw」
奉天は賑やかで豊かでした。
デパートのようなものもあって何でも買え
官舎で何不自由なく暮らしていました。
しかし昭和20年8月に入った頃
ここはソ連が攻め込んでくるかもしれないからと
今の北朝鮮に女性や子ども老人達だけ疎開する。
「軍には情報が入っていたんでしょうね。」
平壌の寮で終戦の日を迎えるが、そこからが大変だった。
8月15日以降 急に現地の人との立場が変わり
家は追い出されるし暴行を受けないように隠れたり逃げたり。
もう一度満州に戻ろうとするも現地の人に止められ逃げ惑う。
途中で やはり何人もの子どもたちが命を落とす。
「食べるモノがなかったからね」
体力のない子ども達は力尽きていった。
最終的に新義州の公民館のような所で
皆一緒に押し詰められての生活が始る。
およそ50名 食べるモノもなく、
現地の子の子守りや手伝いをして食いつないだ。
それから1年 ようやく帰国が叶う。
博多港へ到着 そこから母方の実家の新潟経由で
北相木村に帰ってきた。
送り出したときと変わらず祖父が迎え入れてくれた。
満州でわかれた父は??

実はシベリアに送られていた。
林業をやらされていたようだが
その時に足を負傷し 、私たちが帰国した
約1年後に不自由なままの足を引きずって帰国してきた。
その時のこともよく覚えている。
中学生になっていて、学校でバレボールをやっていると
先生に呼ばれ 早く家に帰りなさいと。
そしてボロボロの軍服で帰宅した父に再会!!
抱き合って涙する。
後に聞いことだが材木につぶされ怪我をし
少し暖かい地域の収容所に移されていたから
助かったのかも、、、と。
シベリアでは寒さと飢えで何人も亡くなっていたと。
若者へのメッセージは?
「平和が一番!!
暮らす所も無く逃げ惑わなきゃいけないなんて
ほんと辛いし情けないですよ。
どうすれば戦争が起きないか?
考えなくてはいけないですね。
当時胸にあった希望といえば
日本へ帰ることでした」
今まで激動の時代を生き抜いた経験から
どうしたら戦争にならないと思いますか?
という質問もしてみましたが
こんな返答が、、、
「 欲張りすぎない事 」
ほんとそうですね。
他人を尊重してさえいれば、
相手が嫌だと思う事もやらないだろうし、
ズケズケおかまいもなしに人の家に入り込んだりしない。
世界中で起こっている事だろうけど、
自分が一番になったような気がして、
欲や自己主張、利益ばかりに走ると
必ず摩擦が起き行き詰まる。
人間には欲があるから無くす事は無理だけど、
国同士の争いになるのを避けながら
歩んで行くには外交力、交渉力は大事ですね。
千葉で暮らすお孫さんにも
先日はじめて 過去の体験を話したとか。
平和学習をしていたようで、とても喜んでいたと。
年々体験者も少なくなってきますが、
直接聞いておくのは大事ですよね。
のどかな村で大切なお話を聞きました。
おやつもたくさんいただき
ありがとうございました!

お元気で。
LOVE & PEACE
愛と平和を歌う シンガーソングライター
清水まなぶ→ http://manaboom.net
回想プロジェクト→ https://www.facebook.com/kaisou1945
長野県の東端 南佐久郡の一つ 「北相木村」
峠を越えてお隣は群馬県上野村。
そう上野村といえば1985年の日航ジャンボ機墜落事故のあった
山のある村で救助に当たったのは上野村消防団でした。
そんな北相木村は およそ800名が暮らす山村
1970年代は倍の人口だったようですが
今では小学生も全校で40名程度
山に囲まれたのどかな村です。

そこでお話を聞かせてくれたのが、
石曽根さん82歳 父は関東軍だった。
もともとはお店をやっていたが
景気も悪くなり店をたたんで関東軍へ。
昭和15年 7歳のとき母と二人で父のいる満州 奉天へ。
その時は祖父におんぶされて
北相木の坂道を下り橋を渡ったっところまで
見送ってくれたことを覚えている。
「この辺りは昭和24年ころまでバスもなく
通学も隣の村に行くのも全部歩きでしたよw」
奉天は賑やかで豊かでした。
デパートのようなものもあって何でも買え
官舎で何不自由なく暮らしていました。
しかし昭和20年8月に入った頃
ここはソ連が攻め込んでくるかもしれないからと
今の北朝鮮に女性や子ども老人達だけ疎開する。
「軍には情報が入っていたんでしょうね。」
平壌の寮で終戦の日を迎えるが、そこからが大変だった。
8月15日以降 急に現地の人との立場が変わり
家は追い出されるし暴行を受けないように隠れたり逃げたり。
もう一度満州に戻ろうとするも現地の人に止められ逃げ惑う。
途中で やはり何人もの子どもたちが命を落とす。
「食べるモノがなかったからね」
体力のない子ども達は力尽きていった。
最終的に新義州の公民館のような所で
皆一緒に押し詰められての生活が始る。
およそ50名 食べるモノもなく、
現地の子の子守りや手伝いをして食いつないだ。
それから1年 ようやく帰国が叶う。
博多港へ到着 そこから母方の実家の新潟経由で
北相木村に帰ってきた。
送り出したときと変わらず祖父が迎え入れてくれた。
満州でわかれた父は??

実はシベリアに送られていた。
林業をやらされていたようだが
その時に足を負傷し 、私たちが帰国した
約1年後に不自由なままの足を引きずって帰国してきた。
その時のこともよく覚えている。
中学生になっていて、学校でバレボールをやっていると
先生に呼ばれ 早く家に帰りなさいと。
そしてボロボロの軍服で帰宅した父に再会!!
抱き合って涙する。
後に聞いことだが材木につぶされ怪我をし
少し暖かい地域の収容所に移されていたから
助かったのかも、、、と。
シベリアでは寒さと飢えで何人も亡くなっていたと。
若者へのメッセージは?
「平和が一番!!
暮らす所も無く逃げ惑わなきゃいけないなんて
ほんと辛いし情けないですよ。
どうすれば戦争が起きないか?
考えなくてはいけないですね。
当時胸にあった希望といえば
日本へ帰ることでした」
今まで激動の時代を生き抜いた経験から
どうしたら戦争にならないと思いますか?
という質問もしてみましたが
こんな返答が、、、
「 欲張りすぎない事 」
ほんとそうですね。
他人を尊重してさえいれば、
相手が嫌だと思う事もやらないだろうし、
ズケズケおかまいもなしに人の家に入り込んだりしない。
世界中で起こっている事だろうけど、
自分が一番になったような気がして、
欲や自己主張、利益ばかりに走ると
必ず摩擦が起き行き詰まる。
人間には欲があるから無くす事は無理だけど、
国同士の争いになるのを避けながら
歩んで行くには外交力、交渉力は大事ですね。
千葉で暮らすお孫さんにも
先日はじめて 過去の体験を話したとか。
平和学習をしていたようで、とても喜んでいたと。
年々体験者も少なくなってきますが、
直接聞いておくのは大事ですよね。
のどかな村で大切なお話を聞きました。
おやつもたくさんいただき
ありがとうございました!

お元気で。
LOVE & PEACE
愛と平和を歌う シンガーソングライター
清水まなぶ→ http://manaboom.net
回想プロジェクト→ https://www.facebook.com/kaisou1945